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(解説) 若き日の近藤康男 (後編)
1999.4.5 原田 勉
七、思想弾圧時代
(一) 転換期の農業問題・・・農業生産力発展を妨げる土地所有
近藤が戦時中にまとめた本に『転換期の農業問題』がある。
一九三八(昭和十三)年から書いた「戦争と農業」「低物価政策と生産拡充との矛盾」など幾つかの論文をまとめて十四年十二月に出版した。その序文で「農業生産の計画が戦争で必要になってきたが、それがいっこうに進まない。この問題をつきつめると私的土地所有の問題に衝突せざるをえないという結論を述べて現実の厳しきこと今日のごとき時代に、経済発展の必然性を語り、政策上の主張をなすことは神の前に裁かれるに等しい」といっている。
内容は戦争経済遂行のため低物価政策が言われているが、その基本的な問題は国内の農業生産力をいかに増大するかにある。その場合農業にたいする資本の投下が必要である。それを阻害しているのは私的土地所有である、という勇気ある主張であった。
それだけに社会的な抵抗があった。農林省の石黒忠篤も「近藤君の議論、生産力に重点をおいて考えるのは非常に必要なことで、いいと思うけれども、その生産力をたかめる方法が、土地私有なんて問題にふれてくるとむずかしいんだ」と言っていた。
このことは昭和七年に初版を出した『農業経済論』でも主張していたことであったが、この土地私有問題が後のちの思想弾圧を招く源となったのである。
(二)『農業経済論』の改版
一九三五(昭和十)年東大農学部本科が本郷に移転し、実科が独立して東京高等農林学校として府中に新設された。そのとき近藤は東京高農教授兼東大助教授であった。高農独立に尽力した古在由直が初代校長には俺がというほどの熱の入れようであったが病に倒れ、肥料学の麻生慶二郎にまわった。それまでは高等農林にも大学と同じ自由があったが一年して第二代の校長松岡忠一が三重高農から移ってきた。大学と違って専門学校の校長には文部省も文句を言いやすいのか、校長を通じていろいろ注意される。「『農業経済論』というのがあるそうだが、あれは訂正してくれ」と言ってきた。
昭和十年は天皇機関説が問題になった年だから当然予想されることではあったが、四六〇ページの本をかなりな改訂を加えて二二〇ページに圧縮する作業は屈辱に満ちたものであった。当時高農の図書館長にされていた近藤は新築の日当たりの良い部屋で二年かけて改訂し、十二年に戦時の思想統制に耐える改訂版を出した。
思想弾圧はすでに始まっていた。一九三八(昭和十三)年二月には大内兵衛、有沢広巳、脇村義太郎、美濃部亮吉ら教授グループ検挙があり、のちにそれぞれ休職処分となった。続いて河合栄治郎教授事件、平賀粛学といわれた思想統制は次第に厳しくなった。
近藤は一九三九(昭和十四)年に農林省の統計課長に移った。有馬頼寧が大臣のときで、「戦争の深化に従い確かな統計が必要になったが、いかにも不十分」ということで大臣の意向をうけた東畑精一が話を持ってきた。農林省に統計官として二年いて東大教授にもどったが、この間は、よく言えば緊急避難、悪くとれば学校からの厄介ばらいであったかもしれない。
(三) 枢密院顧問官会議で問題
東大にもどって、農政学経済学第二講座を受け持ったのは一九四一(昭和十六)年七月、追放になったのは一九四三(昭和十八)年八月である。その間の事情を時の総長代理寺沢寛一理学部長はつぎのようにのべている。(「朝日ジャーナル」一九六二(昭和三七)年一〇月二一日号・大学の自治)
「昭和十八年の二月に平賀総長が亡くなられて暫時私が総長事務取扱いをやった。
枢密院の会議で枢密顧問官の三土忠造が東大農学部の近藤の古い著書を批判して、
<この非常のときに東大に斯様な教授がおるのは国家思想に反することだから、これを直に追放すべきである>というふうに主張して文部省をいじめた。それで文部当局からこの総長事務取扱のところへそういう話があったのです。
私はこういう大事件は数日後にできる本物の総長の解決に任すべきであるという考えで、また私が専門外で内容はわからないということもあって、一〇年も前の著書をいまさら問題にするのは馬鹿げたことじゃないかと、しばらくほうっていたら、文部当局から大学のほうへ矢の催促をしたので、仕方なしに農学部長の
三浦伊八郎氏に事情を話した。学部長は直に近藤教授を招いて顛末を伝えたところ、同教授は<著書の内容、つまり学問上のことならとにかく正々堂々と闘いたいが、事柄は天皇の面前で起きたのであって、自分の著書のために宸襟を悩ましたというだけはまことに恐懼にたえない。それで強要されたと言うわけでなく潔く辞職しましょう>という決心で、即座に辞職願いをしたためて学部長に出した。それで学部長が私に手渡された。
私はこれを如何に処置すべきかということについて考慮して、学部長と私と近藤教授の三人のあいだで闇取引をしてこれを文部省に進達すれば事件は穏便に解決したことになるが、私は近藤君の心情について時局柄とはいえ、忠誠心というかもっと高潔な動機と決心とに感激して、たとえ闇取引と非難されてもこの願書を不用にするような解決をつけるべく決心をした。さっそく文部省に橋田邦彦大臣を訪問して、近藤君がこの願書を書かれた動機などについて縷々説明し、この願書は進達しないからといって橋田君の同意了承を得た。これで事件は表面にでないですんだのである。数日後、新に総長がきまったので引継事項としてこの事件をくわしく述べて置いた。
私はまもなく定年で大学を退職したが、後に夏ごろであったか、近藤教授免官という新聞記事を見て大いに驚いた。この経緯を私は知らない。そのときの総長や学部長に聞いてみたいと思う。」
これはだいたい真相をつたえている。異なるところは<宸襟をなやました>と<潔く>辞表を出したのではない。那須浩教授があちこち様子を聞いてくれたり、近藤自身も枢密顧問官会議なら大臣は出ていただろうと井野碩哉農林大臣にも聞いたが「土屋という名は記憶あるが近藤君の名前は覚えない」という。
ところが、次の総長内田祥三になって東大事務局から著書一式を出せというので『農業経済論』や『転換期の農業問題』などを揃えて出した。それに対して、『転換期の農業問題』に赤線を引いてここらが問題だと言ってきた。
この間の事情を近藤自身で朝日新聞に投稿しようとした文書がある。一九四三(昭和十八)年十月二十日に書かれたが投函されないまま残っていたものである。そこには思想弾圧の経緯と、当時の東大の人事管理がよく現れている。
(四) 近藤康男の手記
「十月二十日附貴紙上に於いて<講壇を追われた教授達>の一人に数えられましたので、ご参考にまで小生の場合を御報らせ申し上げ度く存じます。
昭和十八年六月だったと記憶しますが、平賀前総長の病重く総長事務取扱いを寺沢理学部長がしておられた時、小生は三浦農学部長より寺沢総長事務取扱を通しての文部省の意向である。として<本年四月頃学制改革の御諮准が枢密院にあった際、三土忠造氏より学制を改革しても赤化教授がいては無駄であるという発言があった際、小生の名前があり、宸襟を悩まし奉って東大のことを特に文部大臣にお尋ねになった由、このことがあったがために、平賀総長に親任官の申請をしたが、閣議で東条総理から赤化教授を抱えている大学の総長を親任官にすることはできないと拒まれた。又続いて平賀総長授爵の申請中であって、それにも支障を来す恐れある故、速やかに善処して貰いたい>と伝えられましたので、小生はその場で辞表を出しました。
然るに井野農林大臣(私は当時農林省統計官兼官でした)より橋田文部大臣に異議申し立てがありまして、一応却下することになった由平賀総長告別式の席で三浦学部長より聞きましたがその後井野大臣の退官後、現総長よりよばれて<文部省へ話を打ち切るため行くつもりをしていたが、念のため本部の庶務課長に『転換期の農業問題』を検して貰ったら、ロシアの如くなるのが理想であるとする思想があることを発見した。自発的に辞するか然らずんば経済学部に諮かって休職にする>ということでしたので、小生は直ちに自発的に辞職する方をとりました(なお念のため石井庶務課長は小生が東京高等農林学校教授の際、文部省にあり、校長を通して著書の不穏を注意されたことがありました)。
既に「教授グループ」も退き、落莫たる学内では小生に事件を聴き質すことさえ同僚は遠慮がちに見えました。以上が小生の場合でありましたが、注意を払う必要のあるのは、皇室というものが甚だしく悪用せられる一例としてであります。
平賀総長に親任官及び授爵の恩命があったという記事を新聞でみた時、私は次の通りに思いました。<平賀総長が最期まで護り抜こうとしたものを彼の後継者は
闇の中で売り払うことによって、平賀総長に世間的名誉を以て飾った。彼は死んでも死にきれまい>そして中国の清朝末期が斯様な状態だったろうと想像してみたのであります。 近 藤 康 男
十月二十日
朝日新聞 御中 」
この文書は近藤が『一農政学徒の回想』を書くため整理した古い書類の中から見つけ出したものであるが、同時に赤線の部分についての記録もでてきた。
その記録について近藤はつぎのようにのべている。
(五) 赤線の部分・・・降伏文書
「内田総長になって、あらためて総長の意見だとして事務局長から示された思想的<嫌疑>に対して、私が反駁した文書であるが、しかしその嫌疑が起こりうる点を認めて辞表を改めて書きますと言ったもので、「降伏文書」とでも名づくべきものである。
その嫌疑というのは、昭和十四年版の『転換期の農業問題』六八ページと七一ページである。第一は「私的生産の下における増産の途」という項の最初の部分で<農業発展の方向、換言すれば農業における生産性の向上は、資本の導入、経営の大規模化にあるが、それは私的土地所有によって阻害されているというのが現状である。しかし土地所有に基ずく私的生産が揚棄され、純粋な形態の社会的生産が行われうるのは、露西亜の如く社会的革命を経過した場合である。今はそこまで立ち入って考察することを必要としない>(六八ページ)とある一節である。
第二は同じ項の最後に、小作組合が公認せられ、小作協約が小作契約に代わる中間形態として、農地委員会が機能を果たすべき時期なりとして、
<小作協約の成立は農業経営の改革、すなわち農業の共同化、機械化、大規模化に対して一つの大きな条件を形成する。けれども、この段階は既に土地所有に対するかなりな修正を意味し、如何なる政治形態に於いてそれが可能であるかが既に問題であろう・・・>(七一ページ)と述べている節である。
この二カ所に赤線が引かれ、これをもって、総長は<近藤は農業発展の理想形態はロシア農業にありと考えている>と認められると言うのである。
私はこれに対して次のように申し開きを書いて事務局長に渡した。
第一の節に対しては<共同経営はもとより、合理的施肥すら私的土地所有に阻害されて行われていない事実をあげたのに対しては”しからば当然その私的土地所有を廃したら農業が発展するのか”という反問が予想されるが、しかしその問題には私は立ち入らない理由を述べたにすぎない。すなわちわれわれが今日の事変下に必要なことは、私的土地所有の下で、可能な限り小作料制限、小作地取上制限などの私的所有の制限、調整によって直接生産者を保護し、生活を安定させて、生産を高めることであるが、それは実施困難な制限だと考えるからである>と弁解した。
第二の点については<小作協約というものは農業経営の共同化や大規模化を容易にするが、小作協約を認めることはすでに私的土地所有をかなり修正することになるから、今日の社会制度の下に実現できるか疑問だから、小作協約の問題まではやらない。その中間の形態ということのできる小作委員会制度が現在問題にできる限界であろう。しかし考えてみると、農業生産力を高めるということは、一寸のことをしょうとしても私的土地所有制に触れて困難なものであるなあ、と嘆息した文章である>と弁解した。
そして私はこれらのような点をさして総長がロシアを理想形態とするものだとされるのは誤解であって遺憾である、しかし<純粋に社会的生産が行われうるのは露西亜の如く社会的革命を経た場合である>という言葉だけ切り離してみれば、
総長のような誤読を生ずるのもむりからぬことを認め、前のを却下してもらって、更めて辞表をだすことを認めたのである。」
こうして近藤は一九四三(昭和十八)年八月六日付けで依願免本官並兼官となった。
翌年四月、前から関係していた駿河台の東亜研究所に入って敗戦まで勤めた。
(六) 責任の所在不明の官僚制度
今から振り返ってみると近藤が追放された昭和十八年には、農林省は戦時の国民生活の安定のための低米価では米の生産ができなくなって米価は低米価のままで米作に対して生産奨励金を出した。それは自作農と小作農に出し、小作農に供出責任を課したのであった。地主に支払う小作料は農業会の帳簿の上で低いままの米価で計算することになった。農林省は米の生産を高めるために、地主の犠牲を求めたのであった。それは近藤が必要と求めていたことに他ならなかった。三地忠造は文部省よりも農林省を叱るべきであったと思う。
その点を別にして近藤の思想弾圧事件の責任はどこにあったかを考えなくてはならない。
寺沢理学部長が橋田文部大臣と話しをつけて保留していたことは近藤は知らなかった。そのため総長選挙で寺沢と内田祥三の決戦投票になったとき三浦農学部長が教授会の席で内田さんに入れようというので内田総長にいれた。決戦投票は一票差で、もし近藤が寺沢に入れていれば逆転していたはずである。そして寺沢総長になっていたら近藤をかばってくれたかもしれない。その当時総長なんて誰でも同じだと決めてしまって、候補者を研究しなかった。学問の自由を重んずる人を総長に選ぶ努力をちょとすれば、東大での扱われかたが違ったかもしれない。重大な一票であった。
近藤に著書がけしからんと言われたのが一九四三(昭和十八)年の四月ころで、いよいよ追いつめられたのが八月はじめ。その間に著作一式を事務局に出すときも、当然のことを書いてあるのが差し支えあるはずがないというつもりであった。しかし『転換期の農業問題』は一九三九(昭和十四)年、思想弾圧などそんなにやかましいと知らないで思い切った主張を述べていたものが入っていた。
これを指摘したのは、一九二二(昭和十一)年に『農業経済論』改訂のクレームをつけた文部官僚で、それ以来近藤を忘れてはいなかったのであろう。一九四三(昭和十八)年には東大事務局に移って総長に代わって赤線をいれてきた庶務課長である。時の国策に忠実な官僚と言うべきか。
その証明をするかの如く、敗戦後復職した近藤のところに詫びを入れてきた。戦争犯罪追及で言論抑圧の罪で公職追放されるのを恐れて謝りにきたのであろう。
近藤の学園追放についてGHQに呼ばれて調査され、<おまえをやめさせた責任は誰にあるか>と質問されたが、答えようがない。官僚制度はどこに責任があるか解らないようにできている。学部長でもないし、総長でもないし、文部大臣といっても意味がない。個人がこうしたからと言えば、その人のマイナスになり、追放の一つの材料になる。そこでは言わなかったが、一九五〇(昭和二十五)年になって、再びレッド・パージの嵐が吹いたとき、農学部職員組合から<お前の追放の責任はどこにあると思うか>の質問に次のように答えた。
「私が戦争中に追放されたときの責任者は内田総長であると思います。問題は雲の上に近いところから出たように聞いていますが、その話が始まって決定するまでに二度も三度も風向きが変わりました。私は何の抵抗もしませんし、総長はところどころ誰かが赤線を引いてくれた私の著書の一カ所を指して、この一行から君は共産主義の方がいいと思っていると総長の責任において認めるといわれました。それは惨めを通りこした滑稽な光景であります。(後略)」
(七) 自戒・寵辱若驚
近藤はこの思想弾圧をどう考えたか。後に次の様に述懐している。
「私はあの弾圧の期間を最大限有効に利用したとは言えないと思います。ひとつは弾圧に対する抵抗の基本線はどこにあるべきかを徹底して考えなかったこと、ひとつはあの弾圧の時期を空白の時期にしたという点です。
私の場合、幸いにして生活の心配のない東亜研究所というところへ避難することができたために、安易にその日を送ったうらみが残るのであります。大内先生など思想弾圧で警察にやられた多くの人は、不幸であったが、世間から隔絶された境遇で古典を読んだり翻訳をしたり、最大限有効に時間を使って他日に備えられたことに学ばねばならないと思うのです。
人間は最も得意のときと、失意のときに、どういう構えをするかを戒心せねばならないのではないでしょうか。」
後に弟子たちに贈った色紙に「寵辱若驚」と書いた。老子の第十三章「寵辱に驚くが若くし」から採ったものである。その意味は<寵愛をすぐれたもの、汚辱をおとったものと考えて、ひたすら寵愛をもとめ汚辱から遠ざかろうとし、それがうまくゆけば有頂天になり、うまくゆかなければ心を驚動させることをいう>
(『老子 上』 福永光司)。俗にいえば、褒められても有頂天になるな、うまくゆかず挫折したときも慌てるなである。これは近藤の生涯の自戒であった。
八、ひたすら農民のために
農林省が行ってきた農林統計に、いわゆる「近藤改正」というのがある。
まえの思想弾圧の時代に緊急避難として文部省所管の東京高等農林学校から農林省の大臣官房統計課長に替わったことを述べた。
しかしこの時、近藤は一九四一(昭和一六)年『農林統計改正要旨』をなしとげた。農家一斉調査の中で農家の産業分類が取り入れられ、生産数量調査から生産力調査へ、農業経営の立体的観察ができるような集計方法へと改められたのである。ふつう統計課長は閑職で「配所の月」をながめるポストといわれていたが近藤はそれに甘んじていないばかりか大改革をおこなったのである。
東大を退官するとき近藤康男博士還暦記念出版として『日本農業の地代論的研究』が刊行された。その序文に大谷省三は、
「先生は、講壇に立ちながらも、講壇主義者ではなかった。つねに社会の動きーー人民の要求が何であるかを敏感につかみとりながら、いかにすべきかを考える人であった。理論は、現実を遊離しては、観念の遊技にすぎない。先生は、つねに現実をみつめる立場をかたく守られた。先生の眼は実証主義者の眼であった。先生が、農林省の官僚機構のなかに、進んで入ってゆかれたのも、わが国の農業統計を整備しなければ、実証にもとずく研究が不可能であることを痛感されていたからであろうと思う。その点で、先生が、わが国統計史上にのこされた足跡は、大きな歴史的意義をもっている。
先生は、世間的には農業経済学者ということになっている。しかし、その研究の分野は、わが国のどの農業経済学者よりもひろい。農業はもちろんのこと、林業、漁業までも研究の分野にくりこまれている。先生はいわば「第一次産業経済学者」である。還暦記念論文集が、農林業関係、漁業関係、統計関係の三部作の形で、出版されることになったことも、ゆえのないことではない。」
と述べている。そしてこの巻末に「改題-近藤先生と農業経済学」を阪本楠彦が二〇ページにわたって、その学問業績を紹介している。
なお、その詳細は「近藤康男著作集全一三巻」として農文協から刊行されているのでここでは割愛したい。
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