木目2

若き日の近藤康男 (前編)


(解説) 若き日の近藤康男 (前編)

1999.4.5 原田 勉

一、「一途の道 近藤君の生活態度」*

 このタイトルは東畑精一の近藤評である。おなじ名古屋の第八高等学校の卒業生で、ともに農業経済学を学び、ともに東京大学農学部の教授を勤め六〇年の長い交友関係にあったが、その評価は的確である。すこし長くなるが要点を紹介したい。


 「わたしを打つ最大の点は、この間に近藤君の生活態度ともいうべきものが、終始一貫殆ど何の変わりもないということである。彼にあっては、これは天性のもののように不動の姿で現れている。
 まず彼はその日常生活において、恐らくははめをはずしたことがないように感ずる。毎日毎朝はもちろん、自分の家にあろうと学校にあろうと、農村調査の旅に出ようと、いつでも同様なリズムやテンポーである。わたしなどややもすると調子に乗ってはめをはずすことが多くて生活態度が不安定であることがしばしばあるが、そしてしばしば後で悔いることがあるが、近藤君には恐らくそんなことは一度も無かったであろう。(中略)
 わたしは年齢を重ねるとともに、いよいよ、そのように感ずることが強くなり、今更ながら近藤式態度に服するようになってきた。」

 たしかに東畑精一に比べ派手でもなく、はめも外さず静かな研究生活であった。しかし、つねに社会の動きをとらえ、ひとびとの要求が何であるかを敏感につかみとりながら、いかにすべきかを考える。静かであるが情熱を秘めた姿勢が若いころからあった。

*「昭和前期農政経済名著集 第二巻農業経済論」一九八一年九月月報所載。東 畑精一は終戦後吉田茂首相に農林大臣就任を要請されたがこれを断ったことで 有名である。東大退官後も農林水産省関係の役職をはじめアジア研究所などの 会長を歴任、一九八〇年には文化勲章を受賞。一九八三年没。



二、農村問題に取り組む途

 一九一九(大正八)年、八高には建築科志望で理科甲類に入ったが、城南寮の二年間斎藤昇(*)と同室で、二人でよくわれら何をなすべきか議論した。世界大戦後の不況、物価高騰による米騒動、全国に広がる労働争議・農村の小作争議の続発であるこれらは大きな社会問題となり、デモクラシー思想の広がりとなった。その流れの力が強く、それに動かされ、建築志望をすてて農村問題に立ち向かう途を選んだのである。
 一九二二(大正一一)年斎藤昇とともに東京帝国大学農学部第二部(農業経済学科)に進んだ。
 農業経済学の専任教授は佐藤寛次、那須皓の二人。当時は社会主義思想が普及した時代で、左翼的な本や論文が出版され、学生の研究会で「賃労働と資本」などをテキストに何人かで一緒に讀んだ。そのごも学生の諸研究会でマルクス経済学関係の本を讀み、助手となって研究生活に入ってからもつづき、後に刊行した『農業経済論』や『協同組合原論』を構成する基礎になった。

 *斎藤昇とは駒場の三年間も同じ下宿で兄弟のような生活であった。しかし斎  藤は卒業前に法学部へ転進し、以後内務省畑を歩き、戦後は内務次官、警視  総監、警察庁長官、参議院議員、運輸大臣、厚生大臣などを歴任した。一九七二年没。



三、チュウネンから『農業経済論』へ

 一九二五(大正十四)年四月、東京帝国大学農学部助手となった近藤は指導教授の佐藤寛次から農業経営学が課題として与えられた。
 そこで農業経営学の方法と体系を追究するためチュウネン『孤立国』を熟読、研究した。一九二八(昭和三)年に出版した『チュウネン孤立国の研究』として発表した。その序文に「チウネンの『孤立国』は今から約一〇〇年前に、ドイツにおいて公にされた名著であって、農学および経済学の両方面からみてはなはだ興味の深い古典である。」と評価している。
 近藤は『孤立国』の翻訳・研究に二年余りを費やし、原著の翻訳本まで出版した一九二九(昭和四)年。しかし、チュウネンの古典を読みながら、その眼はいつも日本の農業・農民の現実に向いていた。ドイツの企業農の観点に立った『孤立国』の考え方、体系というものではもの足りないものがあった。自序の終わりの方でチュウネンを克服しなければならぬと言う。曰く、


 「私のこの研究が今日の日本の国民経済ないし農業の認識に何物を加えたか。 農村問題の解決に幾ばくの貢献をしたか。この問に対し私は心中の熱するを覚 える。このような間接的にしか社会に寄与しえない事がらに時間を費やすを恥 じたく思う時さえある。ああ学問の本格的境地に突き入り、生きた実在をその ままつかむ喜びに浸る日はいつの時に来るであろうか。それは私においては同 時にチウネンの克服である。思うに世界において最も多数を占め最も悲惨な生 活をしている小農の認識はこのような資本家的農業経営理論の止揚によって可 能であり、事態はその止揚を待っているのではなかろうか。私はこのチウネン 研究を転期として小農の研究に進みたいと思う。」

 近藤の苛立ちにも似たこの表現はどこから来たのか。時代は大正末期から昭和の初め、農産物価格の暴落による農村の不況は次第に深刻さを加え、小作争議の件数も参加人員も最高に達していた。岡崎の実家でも繭価の暴落に喘ぎ、父は養蚕をやめ、村の収入役をしたり、銀行員になったりして脱農の過程を歩んでいた。
 近藤には日本の農業と農民のことがいつも頭を離れなかった。
昭和二年大学ではオーストリアの碩学アルフレッド・アモンを客員として招き、学生向けの講義を数回したあと、農経教室の研究員のためにゼミナールをかなり長くやってもらった。それは「das kapital」の輪読である。すでに高畠素之訳の『資本論』もでていたが近藤にとっては体系的にマルクスの経済学を勉強する機会となった。
チュウネンのようにひとつの経営なり、ひとつの個別資本のなかで再生産を考えるのは国民経済的にみると狭すぎる。それでマルクスの『資本論』からローザ・ルクセンブルグの『資本蓄積論』やヒルファーデイングの『金融資本論』を読み進めるに到った。このあたりから農業経営学から脱却し社会科学的農業経済学の思索が醸成されていった。


四、農産物生産費構成の分析という視点

 このようにして、近藤の社会主義経済学の研究と、それを武器とする日本農業の当面する諸問題の研究がはじまった。最初にみられるのは農産物生産費の研究である。
 農業経営学の確立を念頭にエレボーを読みチュウネンを読んだが、企業家地主の経営学である。そこからの脱却は社会科学としての発展の法則をもとめる農業経済学を打ち立てなくてはならないと考えたのである。
 一九二八(昭和三)年から始まる農産物生産費の調査はその後の学問体系を規定する基礎となった。チュウネンのように価格を前提にした学問ではなく価格を解明するという立場で、生産費の研究によって生産の形態を広く認識し、生産関係を明らかにしようという目的があった。資本家的経営者の立場で生産費の低減とか生産過程の合理化という狙いの分析ではない。あくまでも小農の立場にたち、その点からチュウネンを克服するものであった。
 しかし、その方法はやはりチュウネンとおなじ、書斎から出て農村の現実から学ぶことは同じ手法であった。
 その当時米穀法改正に関して農林省と帝国農会との間に闘わされた米の生産費調査方法の論戦を批判し、正しい調査方法をしめした章を初めとして、カンキツ、茶および製茶の生産費、葉煙草の生産費について、目に見えない構成要素を明らかにした。つまり、費用価格を形成している肥料、農機具、労賃、自家労働や租税、小作料の重要さを量的にしらべたのである。
 これは同時に農業と商工業(小生産者と独占資本)との関係を分析するとともに、農業生産に残っている封建的搾取関係、資本主義的生産様式の導入の程度、小農的生産の諸特徴、自給自足経済の程度などを明かにする意図を持っていた。
これが生産費の構成を分析する視点である。
 この一連の調査は農業経済学科の職員と学生の協力により、恒常的な研究会がもたれ、調査と討論が繰り返されながら、昭和四年から六年にわたって行われた。学問的協同の組織指導者として、また報告書のまとめ役として近藤は中心的責任者となった。そのことを『農産物生産費の研究』の序に次のように述べている。
 「なかでも実地調査は易々たる業ではない。一片の数字、半句の説明といえど も多くの科学的労働と良心的討究の末に結晶したところの玉である。しかしこ の玉は質朴である。もし我々が農民の困難という悲しき問題を幸福に弄ぶ傍観 者であるならば、このような研究はつとに捨て去って、もっと容易の途につい たであろう。我々と協同の研究者が示した忍耐心は、この問題が結局、自己の 属する階級の解かねばならない問題であることの自覚からのみ発するものであ ると思う。」
 近藤の「生産力・生産構造の問題を社会経済との関連の中で分析する」という体系を実態調査によって実証的に証明する手法の本格的始まりである。階級的に誰の立場に立ち、何を対象とするか、その基本が示された宣言であった。



五、マルクス経済学の立場に立つ最初の『農業経済論』

 農産物生産費の調査をすすめる一方で、先にあげた『資本論』やローザ・ルクセンブルグの『資本蓄積論』を読んでいた。ローザにとくに関心を持ったことについて近藤は次のように語っている。

 「結局僕の問題としてもっている日本の農業の問題を考えつつ、いろんなものを読んでいるときにローザが非常に面白く読めたのは、つまり総資本の再生産 のなかで、拡張再生産の前提条件として追加の購買力を、国内の農民経済の自 給経済を分解して、商品経済に引っ張り込み、国内に追加の市場をつくるとい うこと。それでも間に合わないから植民地、外国市場を求める。そういう点で これこそわが学問の体系と思ったのでしょうね。」


 「総資本の再生産を考えるばあいは価値の再生産も必要だけれども、同時に現 物形態の使用価値としての循環、再生産も必要だということで、そこで食糧で あるとか、植民地からのものをもってきて拡張再生産が行き詰まるのを打開するというような問題が出てくるわけです。
  ローザを学んで国民経済的には、農業基本法の理論的指導者が言っているよ うに、儲かるものをつくれといってすませるわけにはいかないところに日本の 農業問題があることを会得したのです。」

 さらにローザからヒルファーディングの『金融資本論』を読み、具体的な構想が浮かんできた。
 一九三一(昭和六)年助教授になった直後の夏、三河三谷の海岸にこもって『農業経済論・・・資本主義と農業』(一九三四年)を書き上げた。近藤の農業経済研究の方法論とそれに基づいた体系を示すものであった。

 「それを一口で言えば、農業問題は、経済的には、総資本の拡張再生産に関連 して起こる問題であるという認識の上に立っている。」
「現実の資本主義は、国内ではまだ完全に資本主義の生産関係に入りきらない 農民経済を収奪し、さらに国外に手を延ばして、植民地の収奪によって帝国主 義という性格をもつに至っている。「農業問題」と「植民地問題」というもの をこのように位置づけ、そこまで探求を進めようとするのが」

 基本的姿勢であった。これはその第一章緒論に展開された。
 第二章では地代を中心として農業における生産関係の特殊性をのべている。つまり土地所有をめぐる地主小作という関係が基本になり、日本では資本制地代ではなく、現物地代や労働地代など封建的なかたちが残っている。それが農民を圧迫していることを認識の基本におかねばならない。
 そのため多数の小作農が貧農化し、過剰人口として農村に留まり、低賃金のもとになり、女工哀史がうまれている。輸出品がソシアル・ダンピングの非難をうけるのもこのためである。
農民の貧困は過労を、女子・幼年まで及ぼし、睡眠時間を奪う。ここに有名な
文章が書かれた。「過労・・・これこそ百の禍の伏するところ」として「農人(のうど)は戻るし」の農民の歌を掲げている。
 『農業経済論』の第三章から第五章まで、農業が資本にとって蓄積する過程でどのような役割を果たすのか、商品の販売と購買の両面から見ている。農産物の商品化はどのように進んでいるか。広く追及し、中でも繭取引では典型的な独占資本の支配を、煙草専売では国家独占資本の統制による農民支配を挙げている。
 販売市場は、資本の工業生産物を農業・農民に売り込むもので、独占価格で販路を拡大し利潤を得ていく。その事によって買う必要は売る必要となって、農民の商品生産化、農業の近代化を促すのである。肥料や農業機械、水利土木事業による農村支配など豊富な資料にもとずいて克明に描いた。
 そして、これらの近代化は土地問題の解決を迫る。地主制のもとにある小作農は金肥を用いて多肥農業をすることはできるが、土地改良への投資が出来ない。
トラクターやコンバインは規模の零細な農民の採算には乗らないという矛盾にぶっつかる。資本が高い生産性をもった技術を農業へもちこむ時、生産関係の問題に立ち帰らざるをえない(この問題は現在の基盤整備など構造改善においても当面する問題である)。
第五章は、投資・・・植民地農業の支配の問題である。国内で見られた販売・購買の問題がより拡大された規模で、投資・資本輸出という形をとって、暴力的に行われる。
 この本では朝鮮・台湾の例をあげたが、古今東西、現在でも発展途上国の援助とか開発輸入という名でより大規模に行われているところである。



六、『農業経済論』の評価

 以上の体系をもった『農業経済論』は多くの読者を得て、中には農業経済学専攻の決意を促し、阪本楠彦はこれをみて一生を農業問題の研究につくすと決心を固めたと言っている。石渡貞雄は「わが国において、マルクス経済学の立場から書かれた最初の農業経済学書」と高く評価した。
 それだけに出版後の激動期に思想弾圧の波を強くうけることになる。

(『近藤康男著作集第二巻』参照。『農業経済論』初版が全文復刻収録され、 改訂版の序と目次も参考に掲げてある。同時期に出版した双生児『農産物生産費の研究』もあわせて収録されている。)


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若き日     履 歴     著 作
『七十歳からの人生』 二十世紀の農村


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