木目2

「想い出エッセイ」


『農村と都市をむすぶ』(発 行 /全農林労働組合)他寄稿 

「想い出エッセイ」

 2002年、百三歳になられた、近藤康男先生が書かれた「想い出エッセイ」です。
 1899年生まれで、3世紀を生きた先生が現在もお元気で農文協図書館に通勤し、執筆活動を続けられていること自体が希な事です。先生にあやかって老いても一日一日を楽しく暮らしましょう。 (農文協図書館 秘書 原田勉
<目次>
(岡崎の歴史・その一) 二〇〇二年三月六日  在原業平(ありはらのなりひら)の歩いた途
(岡崎の歴史・その二) 二〇〇二年四月三日  子買いの食事問答の歌
(岡崎の歴史・その三) 二〇〇二年十月二三日  安藤川改修
 二〇〇二年四月十五日   東京高等農林学校時代の想い出
 二〇〇二年四月二十五日   東京高農の「購買部」出発の頃

<104歳の思い出エッセー>(2003.1) 図書の保存法は図書館が最高
<104歳の思い出エッセー>(2003.7.) 有馬頼寧(ありま よりやす)さんの思い出

『農村と都市をむすぶ』寄稿 「想い出エッセイ」
岡崎の歴史・その一)  二〇〇二年三月六日

在原業平(ありはらのなりひら)の歩いた途

近藤康男

 私は高等学校生徒の頃、石井教授の国語の時間に、平安時代の話のなかで、京から東へ下る途中、『三河国八橋といふ処にいたり、その河辺にかきつばたが、いとも面白く咲けりけるを見て、木のかげに下り居て、かきつばたといふ五文字を句の頭に据えて旅の心を詠まんとて詠める「唐衣きつつ馴れにし妻しあればはるばる来ぬる旅をしぞ思ふ」と歌った』という、在原業平(ありはらのなりひら)の故事を聞き、その「八つ橋」という処は、西三河の町であることを説明されて、大層うれしくなりました。業平の歩いた途は、生家の門の前を通る道かも知れないぞ、という疑問である。
 そこで私は、参謀本部の五万分の一の地図でその地をさがしました。しかし見つけられません。現在の知立・刈谷から現在の東海道本線と平行する道路が沢山あって、そのうちの一つだけが矢作川の「渡り」で矢作川をこえているのをみて、その線と「渡り」とが業平の歩いた途に相違ないと推察しました。
 更に、その「渡り」から糟海村の犬頭神社のある宮地をつなぐ一本も他のものと違って一直線です。その宮地集落は徳川時代の旗本、大久保、松本、本多などが集まっていますが、宮地集落の人の旧家の子が私と小学校同級生ですが、その子から「私の家の薮は『旅人の薮』(とうどのやぶ)と家人が呼んでいる」と聞いた記憶があります。やはりこの路が当時の街道だった証拠になると思います。
 八つ橋から宮地まで一直線の東行ですが、犬頭神社の参道が転じて南を向いて通り、その参道が道路をかねていましたので、鎌倉を目指す南行の路になりました。しかもそれは、この秋の競馬のときには馬場になるので、幅が広くとってありました。その馬場が約三百メートルでした。日露戦争の頃まで私は毎年競馬を見ました。
 直線の馬場が、幅を狭めて延長され、もとの通りの狭い道路になり、五百メートルばかりで、井内(いない)の集落です。ここが私の生家のあるところです。
 井内の北の入り口にあった私の生まれた家の門前を、業平さんは歩いたと思います。
この集落は、徳川家康が矢作川の大改造をして、新川の河口を大浜にしたときの付帯工事として設けられた大浜街道が通ていましたから、業平の鎌倉への道はそれと集落の中央で交錯し、街道は西へ、鎌倉への道は南行しています。
 大浜街道は広くもあり、通行量もあり、砂利で舗装もしていましたが、鎌倉への道は井内を出てからは急に狭い道になり、街道でなくなりました。
 ただ、ここで私が注意せねばと思うのは、ここの小字名に「殿街」(とのがい)とか「久世」(くぜ)とか、奈良と結ぶ地名が残っていることです。この糟海村の初期は荘園ではなかったかと思います。井内の集落の内に「牧御堂」(まきみどう)などの名が見えます。
 鎌倉への道の衰弱はひどかった。昭和農業恐慌の頃には、土呂町の市(いち)も立たなくなった。蓮如上人の日の賑わいもなくなり、鎌倉への道は不安になった。などであったが、私自身が考えても明らかにあの道を歩いて土呂町へ行くことは考えられない。最大の原因は井内を通過する大浜街道の影響でしょう。岡崎駅ができて、魚や牛肉など日用品は停車場で間に合うので、悪路を我慢して土呂町へ行かずに済むからである。
 家康の矢作川改革は、大きな船が岡崎港まで来るようにした点は名案でありますが、陸上の交通をも改革したのであることを忘れてはならないと思います。
 しかし、京から東への道は衰えたと言えます。ともかく、糟海村の南端の下和田で、郡界ともなっている占部(うらべ)川用水を越えて土呂町に入り、岡崎町から土崎、針崎と旧海岸線を南下した県道と合体し、南に南下して、宮路川と羽根山との接合点、馬鞍の鞍部にあたる最も低い幸田で峰を越して南下し、浦部で海岸通りに出て、豊橋で、五十三次の東海道に合し、京から東下りの使命を果たしているだけでなく、私の抱いた好奇心をも満足させてくれました。


『農村と都市をむすぶ』寄稿 「想い出エッセイ」
岡崎の歴史・その二) 二〇〇二年四月三日

子買いの食事問答の歌

近藤康男

 西三河の主要な二郡、額田と碧海は、その成立が地質学的に異なり、額田は古い火成岩からの土壌であるから、農地を開拓しても大きな田は開発できない。他方碧海は元来は海であったのが矢作川などからの沖積作用によって埋められた平地である。
 それで山地と平野となったもので、その差が今日まで作用している。
 山地をなしている額田は古代には穴居であった。食糧自給のための農業は、山地であるから、田は小さく人の額(ひたい)のように狭いものばかりであった。額田という地名もそこから出ている。従って人口を維持する力が低く、過剰人口の問題に対処せねばならない所である。
 これに反して碧海は、地質学的には一面の海であったのが、矢作川などの沖積作用によってできた新しい平坦な土地である。開拓してはじめて農地になる地質である。
開拓のために大きな資本を投じたのは、明治用水など明治時代になってからであるが、農業に有利な平坦地という根本が額田と異なるだけでなく、徳川家康による矢作川の大改正によって、大船が岡崎まで上れるという投資がなされたなど、生産力の高まり、それに付帯する諸設備によって「日本のデンマーク」といわれる地域を構成している。
 この二つの地域が相接しているところが注意点で、山地と平地の生産物の交流が当然行われるのである。額田が多くの労働力を自ら維持できなく、労働力を他に供給する地域とみなされるに反し、碧海は農村的ではあるが労働力を需要する地域となっているのが、相接しているのである。
 土呂町(今は改正して福岡町)は昔からの開発が行われ、両地域に対し、いろいろの点で結節点になっている。殊に労働力に関する土呂町の役割を注目しなくてはならない。
 明治四十年頃、私の見ている土呂市(いち)は賑やかであった。もちろん山のものと、里のものの物資交易が中心であったが、労働力の交易も此処で行われていた。額田・碧海両郡の境界線に位置する裕福な町の姿であった。
 額田郡の一青年が、碧海郡のある会社に就職することが決まり、会社の歓迎会と額田青年会側の歓送会とが共同した会を土呂町で開いた。その時の催しのひとつとして、会社の社長と青年団代表者の間で、会社の食事のあり方について問答をして貰おうというのであった。それが次のようなものとなった。


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 子買いの食事問答の歌
(A)額田の青年会代表者の質問    (B)碧海の会社社長の答へ
子供を買うぞ、子買いだ、
.(1)、何という名の子がほしい?  M君という名の子がほしい 
(2)、何を喰わせて置かる? 一膳マンマ
それではいやよ  二膳マンマ  
それでもいやよ 三膳マンマにトト喰わせてやるか
小骨が立つよ 噛んで喰わせる
塩気がないよ  いびって喰わせる
(3)、舟がなくてよう行けん これに乗って来いや

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 この両者の問答の説明が必要であろう。
 最初の社長の言葉は、一人の若者の入社を決めた社長のよろこびの声であろう。「子買い」だと言いながら、給料のことが全く現れていないのは、既に了解済みであるからであろう。
 そこで額田側青年会の代表者は、直ちに会社では社員にどのような食事を給するつもりであるかを問っているのである。
 その問いと答えとが、活発に進行して、聞く者によい感じを与えるのは、明治四〇年頃という時代は、日本経済が日清・日露戦争後の発展の時代であって、会社の給食も改善可能であった時代であったからではなかろうか。
 しかし、会社の食事が「いびったサカナ」に達しては、額田の青年会代表者の追求も止まって、別の問題を取り出したのである。
 額田から碧海へ行くには矢作川を越えなくてはならないが、額田には船がないという問題であった。 
 それに対して碧海の社長には、用意があったのである。
 そして直ちに答えた。言葉少なく次のように答えた「矢作川には矢作橋もあり『渡り』もやっている。M君には大きな船は必要ないが、小さな舟が必要である。額田の諸君は下駄というものを知らないのは当然で、雨が降っても水が道に残らないからである。しかし碧海は違う。道路に残った雨水は容易になくならない。下駄という小さな舟が必要である。ここに一足の下駄がある。M君が碧海へ来るときは、この小さな舟に乗ってきたまえ」という意味をこめた贈り物である。
 拍手が湧いて、問答の歌は終わった。

 私がこの会に出席していたのではない。出席者から聞いた話でもない。私が知っているのは、この問答の歌が評判がよく、土呂町の近くの村々へつたわったということだけである。
 私のむら(井内)でも土呂で聞いたと言って伝えた人があった。冬の日の日当たりで村の子供が集まっているところで、音頭をとって唄うのに和して多勢が唄ったとき、私も参加して唄った記憶がある。
 しかし、あれから指折り数えると、九十年も経過して想い出したのである。


『農村と都市をむすぶ』寄稿 「想い出エッセイ」
岡崎の歴史・その三) 二〇〇二年十月二三日

安藤川改修 

近藤 康男 

 矢作川が山で崩壊した土砂を沖積活動によって運んで、三河湾を陸地化していた時代、その左岸に大きな自然堤防を積み残した。現在の国鉄東海道線矢作川鉄橋あたりから下流へ約二キロ、現在は岡崎市に編入された旧六ツ美村の村境とほぼ一致した自然堤防である。
 この自然堤防は大きいもので、その上に中之郷、上・下青野、合歓木などの大集落が営まれている。集落に付帯の畑もあるが、それよりも湿田となっている部分が多いことがこの村の特徴である。
ところが自然堤防が滲み出す水分が冷水であるため、農作物、主として水稲がこの冷水のため害を受けること甚だしかった。殊に湿田の水稲は耐えがたかった。農家はこれを「小悪水」、冷水の掛かる湿田を「水荒い(みざれ)」と呼んでいた。その原因である滲み出す水を禁止させることができないので、農家が対処するよい途はなかった。そこで、部落で悪水を小さく集め、協力して一ヶ所へ落したのが安藤川であった。安藤川は自分で海まで流す力はなかったから、下流の江原地区を経て矢作古川へ流していた。
昔の安藤川は、野川と言っていた。いつも停滞し流れなかった。低地であった安藤部落の東側などは、沼になってカモやガンの遊び場になっていた。それを解決しようとしたが、不徹底で、上流を含めて大改修を必要としたのであった。
 私の井内部落や最上流の宮地から安藤川まで約四キロメートル、一直線の排水溝の幹線を設けたが、日々滲み出る「小悪水」を完全にとらえて除去することは出来なかった。
それを解決したのは明治三三、三四年の大改修工事であった。矢作川の上流(天白)からの分水によって、六ツ美村の最上流宮地から暖かい用水が無限にえられ、村内広くその利益を分かつことが可能になった工事の実施である。宮地に司令部を設け、そこで村内に配布したのである。私の家の「水荒い(みざれ)」が良田になり、苗場になったのは最初の年であった。私が中学生の頃、顔見知りの老人から「このあたりの湿田が良田になり、稲作が好くできるようになったのは安藤のおじいさんのおかげです」と言われて嬉しかったものである。
 矢作川上流の暖かい用水が、「悪水」を圧倒して、六ツ美の稲作を確固たる基礎に立たせたのである。それだけでなく、排水溝が貯水池に流れることによって六ツ美村を不動の二毛作(裏作の菜種)にしたのもこの力であった。六ツ美の人達の協力である。
 私にとって、安藤の祖父が村人の感謝を得ていることはうれしいことであった。安藤橋のそばに建てられた記念碑には次のように書いてある。
 「杉浦定吉、六ツ美村安藤に生る。代々農。安藤村の旧荘屋。安藤川は昔より 悪水滞って疎通せず・・・・明治十五年三島切れの大水害後、県は少しく改修すと 雖も、霖雨氾濫、昔と異ならず、数年に一回僅かに収穫あるのみ。定吉悪水排 除の法を主唱し、三十一年水利組合(を組織し)・・・・一死万難を排して工事を 督励して倦まず。三十四年竣工。三十七大字(あざ)にまたがり関係反別九百 八十余町 歩。総工費八万一千余円。不毛の地ひるがえって良田となり、純益 一万円余の年収を増加す。」
 「一死万難を排し」というのが形容詞ではなかったようで、私の母(祖父の長女)の話によると、反対派の人たちに追い回され、私の家へ逃げ込み、二階の長持ちの中に隠れたこともあったということである。
安藤川の改修によって事情は一変し、小悪水は圧倒され、稲作はじめ各種農作は一挙に成功し、六ツ美の農業は繁栄をもたらした。これによって二毛作が広く実施され「農業六ツ美」として広く賞讃されることになった。



『農村と都市をむすぶ』寄稿 「想い出エッセイ」
二〇〇二年四月十五日

東京高等農林学校時代の想い出

近藤 康男

「東京高農の農経ゼミ、二人の学生の思い出」
一、東京高等農林学校
 一九三五(昭和一〇)年、東大農学部本科が東京市目黒区駒場から本郷区弥生町に移転するとき、実科は東京高等農林学校となり、北多摩郡府中町蛇窪にあった東大演習林に新校舎を建設して独立した。
 学科は農、林、獣医に分かれ、私は農科の農業経済学を担当する初代の教授となった。三六歳の時で東大助教授を兼務していた。現在東京東京農工大学となって農業経済学系の講座も多くなったが、その開祖は私である。目黒・駒場から府中へ移った学生は演習林の伐採から開墾が農場実習の主な仕事であった。その合間の授業と演習であった。 
二、昭和十一年の卒業生
 当時、農業経済学の教授室は一九三六(昭和十一)年卒業生のアルバムにある農業経済学のゼミの写真のように暗かった。そこに、私と七人の学生がいる。現在、唯一人健在の吉沢二郎氏は当時を回想して、次のように語っている。
「近藤先生の農業経済学の授業もゼミもよく分からなかったが、覚えているのは農林省の試験のとき、指導教官は誰かと聞かれて、近藤康男先生です、と答えたら一発で、よろしいと言われたことだ。それで当時小作問題の調停をする小作官補に採用され、戦後も地方の農地改革などの仕事に従事、近藤先生の教えを生涯守ってきた」
三、昭和十三年の卒業生
吉沢氏より二年後輩、一九三八(昭和十三)年卒の守屋直助氏は、当時のことを想い出し、次のような手紙を送ってきた。
「近藤先生からはマルクス経済学の講義をうけました。そのころは(昭和十一、十二年)軍国主義に突入した時でしたから校内では勿論、書店からもマルクス主義的な色彩の書物はすべて抹殺されておりました。そんなとき、私たちはあえて先生にマルクス主義とは如何なるものか講義を注文しました。
 先生は微笑を浮かべて私たちの変な要求を聞いていました。そして先生はおもむろに口を開きました。
 『わかった、その代わりに次の条件をつけるぞ、
  一、絶対にマルクス経済学的な講義をうけたことを口外しない、
  二、講義を聞くだけでノートはしない、
  三、窓を閉めておけ、
  どうだ、守れるか』
 もちろん、私たち農学科学生は守りました。その証拠には校長も警察からもいっさい文句がきませんでした。近藤先生の農業経済学はそんな特別講義だったのです。とても貴重な講義でしたがテストも無かったので、いまは皆忘れてしまったが、このことだけは一生忘れません。先生の軍部や文部省に対する抵抗が兵隊ぎらいな若者にとっては人気のある先生でした。一九九九年五月三日」
四、戦争時代の変化
 この二人の想い出の違いは、日本にとって満州事変・日中戦争から太平洋戦争への移行期の二年間の違いである。私に関して想い起こされることの大きな相違の原因となったのも、その差を反映したものであると思う。


『農村と都市をむすぶ』寄稿 「想い出エッセイ」
二〇〇二年四月二十五日  

東京高農の「購買部」出発の頃 

近藤 康男

 東京高等農林学校が設立された一九三五(昭和一〇)年は、厳しい恐慌の末、日本が満州から北支へ侵出した時代であった。
 東大農学部実科の卒業生の強い努力によって独立が実現したのを継承して、府中町にあった東大演習林を開墾して農場を開設し、新校舎を建設するということに代表されるように、教師と学生の協力によって確立した専門学校であった。
 私がもっぱら関与した「購買部」は東大演習林の開拓地には学生の学用品、日用品を売る店が近所に皆無であったのを解決しようとしたものであった。全学生の組織した「学友会」の事業の一つとして出発した「購買部」は今日の大学学生生活協同組合(大学生協)となっている組織の最初の形態である。
 それを組織するのが私の専らの担当であった。各クラスから一、二名の学生委員を決めてもらうこと。麻生慶次郎校長の了解を得て六坪のボックスを学校の費用で建てたこと。店番と商品仕入を担当するおばさんを私の家の女中を採用したこと。年末などの収支の計算に私も参加すること等を受け持った。
 そのおばさんが東京の商店のことに詳しく、学用品などの仕入と店番とを一人で担当してくれたので、学生からも喜ばれることが、できたのであった。
 学生委員は学生の間の必要とするものをまとめる役をして、円滑な運営をするのに適切な組織であった。
 この学生委員の一人が、兵役にとられ戦死するという悲しい事件をうけねばならなかった。彼の姓名を思い出せないのは残念である。彼が第二学年になったときだったが、徴兵にとられ、「北支へ来ています」という葉書を受けて間もなくの戦死であった。鶴見の実家で葬式に高農から数名で参加した。彼の居間が私たちの控え室になっていた。出征した人の部屋がそのままに保存されてあるようであった。机の上に本立てがあり数冊の本のなかに私の『農業経済論』が見えた。私は「先生!」と呼ぶ彼の声を聞いた感じであった。
 この好青年は戦死はしたが、精神は活きていて、私に「購買部」を立派に育ててくれと訴えているように聞こえたことであった。
 彼に、今日の「東京農工大学大学生活協同組合」になったことを告げることができるのは、私の喜びである。


<104歳の思い出エッセー>   (2003.1)

 図書の保存法は図書館が最高

     近藤 康男

 戦争時代と戦後の図書の処理を今に思い出します。
 東京では、1945(昭和20)年1月、立川飛行場の爆撃が始まったころでした。私は大切にしていた本を杉並区上高井戸三丁目の自宅の空き地に壕を掘って置いてみたが湿気が心配です。たまたま隣人が甲府の実家(寺院)へ疎開するというので、わが家でも疎開荷物を依頼しました。
 それには、チューネンの『孤立国』やマルクスの『資本論』ローザの『資本蓄積論』など15、6冊と自分の著作の初版本など20数点の図書と、娘の嫁入り衣装などを加えた荷物を疎開に同行をお願いしたのであった。ところが、甲府の空襲で、その寺院が全焼してしまった。
 これが最初の失敗でした。戦後は手に入れ難い図書ばかりでした。
 現在近藤文庫に保存されている私の戦前の著作初版本は、戦後に集収したものが大部分です。つくづく本は焼いてはいけないと思いました。
1955(昭和30)年、戦後も落ちついて自由に建築ができました。土地は戦時中に確保していましたが、そこに住宅を建てる際に、前例に懲りて私は大工に「図書は火事でも焼けないように」と注文しました。そうしたら「8坪の書庫に金庫扉を使うから大丈夫」と大工に自慢されました。
 金庫扉の書庫は出来ましたが、八坪の書庫は間もなく満員になりました。書庫の三面に廊下を張り付けたのが第二の失敗。それも2、3年で満員でした。
 どうしたものか考えていたときに農文協図書館の個人文庫という構想が岩淵専務にあって、それが救いの神になりました。それも第1号は故人の名城大学教授の守田志郎さんの守田文庫。第2号が広い書架を占領した近藤個人文庫となりました。この個人文庫は農文協図書館の特徴の一つですが、その後、希望者が多くなり、今では満杯になりました。私の場合は幸運でした。
農文協図書館は財団法人の運営する図書館として船出しましたが、農林水産関係という制約以外には何の制約もなく、広い範囲の人達の研究のために集められ、閲覧に何の制約もありません。私などには思いもよらない宝に恵まれました。
 農文協の出版活動のために全国から集めたもの、例えば日本の食生活についてのもの。いやそればかりか、戦時中の農林省馬政局が馬産経済調査という農家の詳しい記録をしてもらったものなど、終戦で焼却さるべきものを保護されて、ここに保存しているものなど貴重なものも集まっています。江戸時代の古い農書の写しなどもあって、研究者にとって一つの宝の山のような物だと思います。
 この農文協図書館は、いろいろな面で活用されなくてはならないと思っています。
(2003年1月 104歳、農文協図書館理事長・農文協名誉会長、農文協内部報第137号 03.3.から引用)



(104歳の思い出エッセー) 近藤 康男 (2003.7.)

 有馬頼寧(ありま よりやす)さんの思い出

 有馬さんは旧久留米藩主の長男として東京・日本橋に生まれ、色々話題の豊富なひとで、私には小学生の頃からの思い出があります。

 1914(大正3)年、大正天皇の即位式後の大嘗祭に用いる米を作る田(悠紀斎田)を担当していた愛知県六ツ美村に、天皇の名代として来られたのが有馬さんでした。当時小学校高等科2年生の私は学校の先生に率いられて矢作川の河原で、六ツ美村の入り口であった美矢井橋を渡る有馬特使をお迎えしたのであります。
 私の父が村の収入役をしていたので、有馬さんについていろいろ聞いていました。有馬さんは、当時農商務省にいて大嘗祭の斎田に関する仕事を担当していた典議官だったということです。六ツ美村で当時使用された耕作従事者の衣類や器具、稲穂などの資料と写真は現在も岡崎市六ツ美民俗資料館に保存・展示され、今でも悠紀斎田お田植えまつりが行われています。

 欧州大戦後、大正デモクラシーの洗礼を受けた有馬さんは水平運動のリーダー格となり、大正10年には同愛会の同士と共に、日比谷公園の草取りをして世の話題となったことがあります。有馬さんはこれについて、「自ら額に汗して得た金で同愛会の事業費を少しでも自ら生みだそういう心からで、騒がれるほどのことではなかった」といっていました。

 有馬さんは帝国大学農科大学の卒業生であると同時に、1931(昭和6)年ころには帝大農科大学付属の教員養成所助教授として農政学を担当していました。しかし、有馬さんは翌年後藤農相の下に農林次官となったため、退職しなければなりませんでした。その後を継いで農政学担当になったのが私です。
 恐らく佐藤寛次先生の配慮であったと思いますが、そのとき私は東大助教授になりました。35(昭和10)年には東京高等農林学校の教授になったが、東大の助教授はそのまま継続していました。

 次ぎに有馬さんが、1937(昭和12)年に農林大臣になったとき私は農林省官房統計課長になって農林統計の改正を行う機会を与えられました。
 私は学生時代に会得した土地台帳を利用した土地所有、農地価格などの統計を調査しました。その時有馬農林大臣は何の制約もなく、気前よく許してくれたので自由に調査することができました。また、宮中で天皇に言上するために米の作付け面積や作柄、予想収量、実収高などを報告する大臣に随行する統計課長として大事な仕事が何度もありましたが、有馬さんのときには、私は控え室で待つだけですみました。

 有馬さんは、1940(昭和15)年、戦時中の農山漁村文化協会の初代会長になられましたが、私は1979(昭和54)年に戦後改革された農文協の第6代の会長になりました。これは奇しき因縁ですが、農文協の性格は戦前の国策宣伝のための大政翼賛から戦後は農民の自主自立を求める文化運動団体に変わっていました。初代会長・有馬頼寧について私は『農文協五十年史』の農文協創設期の人々(21ページ)に詳しく述べています。

 戦後、落ちつきを取り戻した1953(昭和28)年ころ、東京農工大学の大谷省三教授と一緒に杉並区荻窪関根町の有馬さんを訪ねたことがありました。
 当時の有馬さんは最後の財産である土地500坪を利用して花つくりで生計を立てていました。私も500坪の山林を開墾して農業をやっていたので雑談の中心は花つくりと農業のことであったように覚えています。
 有馬さんは随筆を得意とし、そのころ出版した『花売爺』(全国農業出版)を頂いて今も私の文庫に保存されています。戦後財産を無くして500坪の土地に花を作り自分達夫婦と娘が販売係りになって暮らしている話や戦争犯罪容疑者として巣鴨に収容されていた8ヶ月中の話。近衛文麿・木戸幸一・原田熊雄・石黒忠篤、巣鴨の同窓生など人を語るものを含んで興味尽きないものであります。
「農村と都市をむすぶ」7月号所載 2003年5月26日




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