『近藤康男 三世紀を生きて』まえがき・目 次

『近藤康男 三世紀を生きて』まえがき
目 次 (括弧内の注記は原田 勉

 まえがき


 19世紀の終りに生まれた私が、今年まで生き永らえただけでなく、今もなお毎日農文協図書館通いなどをしているのを祝福して、三世紀祝いをして頂くことは幸せであります。その御厚意に感謝するためにまとめた本書は、私が中国の巴金の言葉「過去を忘れさえしなければ、未来の主人になることができる」を信じ、私が経験したことのうち良かったと思うこと、悪かったと悔やむことを列挙しているのであります。大学教師としての本務は別として、私が経験してよかった、誇ってよいと思うことの一、二は戦前の農林省には統計類が整理されていないのを整理した戦時中の統計調査の改正、戦後の食糧供出制の下で農家の自家用の米麦まで供出させないために行った作物報告事務所の仕事などは誇るに足ると思います。
 では、反対に心にかかるものは無いかと言えば、一つだけ私が告げなくてはと思うことがあります。それは満州農業移民についてです。あの問題は本文で詳しく述べたからここで説明は省きますが、あの大計画が国策として支えられた基礎は、日本が当時、人口・食糧のバランスが破れて、満州への大量の農業移民は許されるべきであるという事が一般化していたことによるものです。大量の満州農業移民を強行する前に、国内で、国有林や未利用地の開発をすすめず、安易に移民を国策にし、満州の中国人の土地を取り上げて追放したのは誤りではなかったか、という疑問です。過剰人口説を提言していた那須教授にその点を当時の助手の私達が進言し、それが教授の意見となり、国論の転換になったならば、終戦時の多数の犠牲者を出した悲劇は避けられたかも知れません。けれども、その努力を私達がしなかったことを反省しているのです。本文に詳しく述べています。この問題以外に私の心にひっかかる問題はありません。これを強くここに掲げるのは過去を忘れないためです。 
戦後、私と比較的関係の深かった四つの農業関係団体のことを掲げているのもやはり過去を忘れないためですが、団体として名誉ある事項を掲げただけでなく、名誉でない事件をも掲げたのはやはり忘れないためです。
 その一つだけをここに例示します。それは全農林が労農提携的性格によって初期に採り上げたエサ米の件であります。農林省が戦後はじめて稲作減反を提起した1969(昭和44)年は農民・農業団体に大きな衝撃を与えた。その賛否をめぐって激論があったが農協は生産調整はやむを得ないと決定。そのころ、農事試験場は転換作物にエサ米を研究課題としないという。そのとき全農林では稲作の代わりに大豆など畑作物を転換作物として数年を経過した場合、稲作に復帰する時になって農家の労費は大きく、負担となろうから、水田の状態を続ける作物であるエサ米を作ろうと議論していた。全国的にエサ米を作ろうという農民の運動に合わせて、全農林でもエサ米の試験作を組合員で可能なものが試作することを打ち出し『農村と都市をむすぶ』誌はその旨を掲げました。それに対する応募は各地からあったが、秋の報告はさまで好成績とは言えなかった。昭和四六年から同誌編集に当たっていた私の記憶では、この計画を二年続けたが、その後は絶えたと思います。然るにそれから十数年を経過した昭和59年10月号の同誌に秋田県の雄勝酪農組合が同問題を続けて研究し「エサ米試験田の作柄上等」という報告をみて私は驚き喜びました。同報告は、エサ米のホール・クロップのサイレージにより、畜産飼料の自給の途が成立し、輸入飼料の加工業的畜産業が生まれ変わる可能性へ一歩大きく踏みだしたとありました。
 十数年前の全農林の労農提携的試作を思い出して私は、「徳は孤ならず 必隣りあり」というのはこういうことを言ってるのだろうと思いました。私はこの畜産の正常な農法が秋田だけではなく、日本の畜産の普通となる日を待ちたいと思いました。これは今でも忘れてはならないことだと思います。
  2001年3月        農文協図書館にて 
                                    近藤 康男


目 次

第一章 生い立ちの記
一、日清・日露戦争の時代
 (一)世紀末の誕生(近藤康男が生まれたのはどんな時代だったか)
 (二)十九世紀末の日本とアジア(明治32年1月5日朝日新聞の概要、そ    の時、耕地整理法が立案。中国では西太后実権を握り欧米の進出・義    和団の動き。旅順ではロシアが軍港・築城建設。日本海軍増強。)
 (三)日清戦争後の「臥薪嘗胆」と産業革命
 (四)日露戦争と農民(戦争で景気がよくなると思うが、被害は農民に)
   (五)酒造税と煙草専売制(戦争は税金を伴う)
 (六)農民と金鵄勲章(功8級で年金百円を貰い、田を買う)       
  (七)百円の値打ち
二、「むら」と家(育った環境は農村)
 (一)明治の家族、岡崎藩のなごり 
  (二)井内の三門  近藤家の屋敷配置絵図
  (三)近藤家の先祖
 (四)水と闘う「むら」    
(五)安藤川の改修工事に尽くした祖父、杉浦定吉
(六)三河の農民気質(徳川家康の遺訓)  
(七)祖母のきびもち
 (八)ウイットを解する母
 (九)故郷の今昔(現在の岡崎市井内町)
三、大正デモクラシーの時代
 (一)時代の光と影 (近代化が進んだ時代背景)
 (二)人生最初の岐路
 (三)欧州大戦と養蚕景気
  <近藤家の年間収入> 模範桑園日記・養蚕収入帳
 (四)母屋は蚕室・農家の自給経済
 (五)愛知県立第二中学 (養蚕収入で高等教育を受けられる)
(六)コメ騒動の衝撃(大衆運動の脅威が倒閣)
 (七)第八高等学校・・我ら何をなすべきか 
(八)デモクラシーのうねり・・労働・農民運動
 (九)地主と小作の紛争は近藤家でも
 (十)農業経済学科への進学 (建築科から農学科へ方向転換)
(十一)同学の親友(斎藤昇)

第二章 東京大学農学部 
一、東京大学農学部・駒場の実学
 (一)水を得た魚
 (二)創設期の農業経済学科   
二、農村調査の初体験・・北海道屯田兵村の土地移動調査
 (一)屯田兵村制度と永山村
 (二)1909(明治三九)年の土地移動
 (三)1917(明治四二)年の土地ブーム
三、卒業論文・・・・米市場を学んだ「米価の変動」  

第三章 チューネンの研究から小農研究
一、大部屋の教授室、二つの貴重な文献(大正14年、東大助手になる)
   (一)チューネン『農業及び国民経済上の孤立国』
   (二)古在由直の「足尾銅山鉱毒調査報告」(農民からの訴え、運動高揚)
二、小農の立場から農産物生産費構成分析(生産階級の意識)
 
第四章 「肥料問題研究」と産業組合運動  
一、肥料問題における大資本と農民との対立(独占資本の実態を知る)
 (一)恐慌期の研究(昭和初期、旺盛な研究と著作発表)
 (二)悲惨な農業恐慌(東北冷害と娘の身売り)
 (三)ドイツ輸入硫安ダンピング
二、全購連工場の意義(流通問題、協同組合)
三、第一回産業組合研究会(宇都宮)
 (一)第一回産業組合問題研究会の論争(農民の主体性、政府の対応)
 (二)戦争経済のための統制機構(デモクラシーとファシズム)

第五章 煙草専売制下の農民経済(博士論文)
 (一)農家の階層性による生産性格差・・栃木県中川村調査
 (二)貧農型作物・・広島県小野村調査
 (三)高収入農業の過重労働・・香川県陶村調査

第六章 『農業経済論』・その屈辱の大改訂(執筆担当・梶井功)
 (一)マルクス経済学の立場に立つ我が国最初の『農業経済論』
 (二)『農業経済論』の学説史的位置 
 
第八章 東大追放事件     
 (一)戦争の深化と思想弾圧の広がり(東大の粛学、経済学部教授排除)
 (二)東大追放のいきさつ(枢密院御前会議で問題になり、文部大臣と大学    当局の対応、教授会での支援なし)
 (三)朝日新聞に向けて書いた手記
 (四)『転換期の農業問題』に付けられた赤線
 (五)東亜研究所の二カ年(追放後の研究と農事指導係り)

第六章 「満州」農業移民問題(国政の誤り、敗戦時悲劇の原因)
一、太平洋会議、那須皓教授の過剰人口説
   (一)マルサス的過剰人口論
   (二)「満州」農業移民肯定の根拠
二、大日向村の「満州」分村移住
   (一)「満州」農業移民地の視察(視察団長の立場、冷静な観察)
   (二)月山丸の船上で(大陸花嫁と赤い三輪車)
   (三)武装移民と拓務省の移民計画(王道楽土の宣伝パンフ)
   (四)「共同同貧」・新大日向村移住の問題点
   (五)「満州」の地価、土地買収という名の収奪・追放
   (六)大日向村更正委員会「新村移民規定」
   (七)牡丹江の座談会
   (八)「分村の前後」(大日向村の実態) 
三、東亜農業懇談会・人口部会
   (一)分村移住政策棚上げの理由は?
   (二)陸軍からの農業移民についての新しい要望

第九章 戦中・戦後の農林統計調査
一、戦中の統計調査と調査規則の改正
   (一)農林統計調査にかかわったいきさつ(昭和14年農林統計課長となる)
   (二)田畑の大所有者の「名寄せ」と土地売買事例調査 
   (三)農林水産業調査規則の改正
   (四)農地改革の基本になった土地調査(昭和16年)
二、戦後統制下の農林統計調査(食糧供出の公平化、GHQの意向)
   (一)農林省統計調査局長(昭和22年東大教授が本務、戦後民主化)
   (二)作物報告事務所は農民の敵か?
   (三)食糧供出割当て調査と農村民主化

第十章 農地改革への参与
一、敗戦の詔勅の頃(天皇は戦争責任を言わず。民主化の動きで多忙に)
   (一)私のラジオ放送第一声「供出制度の改正」
   (二)農地審議会、東大復帰 
二、中央農地委員会(農民の立場に立つ)
   (一)中央農地委員会の構成
   (二)在村地主に許された一町歩の小作地
   (三)自作地の保有限度三町歩
   (四)未墾地利用に払われる作離れ料
   (五)私の「The Land Reform in Japan」
三、ドアー『日本の農地改革』を読む
   (一)戦争がなくても農地改革は必然だった
   (二)上からの改革
   (三)占領軍と日本官僚
   (四)農業経済への影響
   (五)農村社会構造への影響
   (六)農民の政治的態度に対する効果

第十一章 MSA小麦協定から日本列島改造論の頃
一、抵抗の種々相(対米従属の傾向強まる中で)
   (一)共同研究『貧しさからの解放』
   (二)『日本農業年報』の再出発
   (三)MSA体制下の農業・・従属国への道
   (四)農基法農政に抗う・・農業問題研究会議
   (五)食管改廃の動きに対して
   (六)高度成長下の酒造業・・中小企業近代化審議会・大蔵部会
   (七)全専売労働組合政策委員会
   (八)日本列島改造に対抗する地域の自主性を
   ・・日本科学者会議第三回農学シンポジウム
二、武蔵大学経済学部の十五年
 『日本農業論』はしがき
 
第十二章 共に歩んでいる諸団体
一、農林統計協会(設立発起人、農林統計の普及)
二、日中農業農民交流協会(海外旅行は中国だけ)
 (一)大変動の中国から学ぶこと
 (二)「満州」農業移民の反省
 三、全農林・農林行政を考える会(『農村と都市をむすぶ』編集代表)
 (一)食糧自給力の向上を求め続ける
 (二)労農提携運動をすすめる
 四、農山漁村文化協会・農文協図書館(名誉会長、理事長)
 (一)農村民主化をめざして
 (二)新しい時代の文化運動の展開

第十三章 二十一世紀社会」への提言
一、戦前の「農村過剰人口」認識と言論機関の果たすべき役割(102歳)
二、東ドイツの巨大農場信奉からの脱却 
  ・・谷口信和『二十世紀社会主義農業の教訓』を讀む 
三、食糧自給は世界平和の基礎である(『食料主権』に寄稿)
本書ができるに当たって(編集協力:梶井功・原田勉の聞書きを基に加筆)
著作年表(1932年から2001年まで75点)

 著者略歴 近藤康男(こんどう やすお)1899〜
略歴:1899年愛知県生れ、旧制第8高校を経て、25年東大農学部農業経済学科卒。31年東大助教授、35年東京高等農林学校教授、39年農林省官房統計課長、41年東大教授、43年依願免本官。46年東大教授に復職、59年東大定年退職。59年武蔵大学教授、75年定年退職。81年農文協図書館理事長(現職)。東京大学名誉教授、武蔵大学名誉教授。
主な著書:『チウネン孤立国の研究』『農業経済論』『協同組合原論』『煙草専売制度と農民経済』『貧しさからの解放』『近藤康男著作集』『農文協五十年史』『七十歳からの人生』『近藤康男 三世紀を生きて』(2001年5月)
◎近藤康男のホームページ
http://nazuna.com/100sai/



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