木目2

図説「近藤康男の三世紀」
二十世紀の農村・農民<光りと影>
原田 勉

目 次
■1899(明治32)年・・・・1900(明治33)年
1章、十九世紀末の日本とアジア


1-1、<日本とアジアを明治三十二年一月五日の新聞で読む>
[写真1-1] 東京朝日新聞明治三十二年一月五日一面記事
(この時の新聞代は一枚一銭五厘、一カ月前金三十三銭であった)。
1-2、<近藤康男の誕生、父と母>
1-3 <日清戦争と戦後経営>
[写真1-3] 日清戦争当時の写真、農村の生活



■1901(明治34)年・・・・1910(明治43)年
2章、戦争と農民


2-1 <戦争と農村のくらし>
 <戦争の被害>
[写真2-1] 日露戦争の戦跡(旅順)
  1,二〇三高地:日露戦争の激戦地跡に建てられた砲弾型の慰霊塔、爾霊山。
  2,東鶏冠山北保塁:旅順港を見おろす位地にあるロシア軍の要塞跡。
  3,ロシア軍要塞から晴れた日は旅順港が見える。
  4,ロシア軍要塞・弾薬庫跡:コンクリ-トの厚い壁は一・五米。
2-2 <戦争と酒とたばこ>
[写真2-2] 農村とドブロク
2-3 <農民と軍隊>
 <農民と金鵄勲章>
[写真2-3] 金鵄勲章(功七級)
 <百円の値打ち>



■3章、家族と環境

3-1<私は小型のカンガルー>
<故郷の現在>
[写真3-1] (岡崎市井内町の近況)
  1,占部川 2,水田 3,道路と集落;近藤の思い出にある<水と闘うむら>
3-2<岡崎藩のなごり・明治の家族>
<井内の三門>
[絵図3-1] 近藤家屋敷絵図と配置図(大正時代)
[写真3-2] (屋敷跡と八幡宮)
  1, 屋敷跡;三三〇坪の屋敷は昭和七年に処分された。
  2, 井内町のなかに残っている八幡宮は集落の守神である。
    この外に共同墓地に康男の祖父母の墓が残っていた。
3-3<水と闘う「むら」>
[写真3-3] (二人の祖父)
  1, 近藤弥兵;先祖は矢作川の対岸から井内に移ってきたというが、康男の曾祖父・岩蔵とともに弥兵がよく働き庄屋につぐ身代を築いた。
  2, 杉浦定吉;大字安藤の旧庄屋で母方の祖父。安藤川改修工事を完成させた。
  3, 安藤橋の袂にある顕彰碑の側に立つのは孫の杉浦定夫と曾孫義之。
<杉浦定吉の碑>
<三河の農民気質>
<祖母のきびもち>
3-4<父…実行で示した教師・写真>
<むら一番の養蚕家>
[図表 3-1] 明治四十二年の反別と地価表
[写真3-4] (父・近藤安治郎、母・たか)
3-4-1、(近藤康男と父・安治郎)
 1,大正四年発行の碧海知名人士録に掲載された安治郎。
 2,当時の六ツ美村役場と農会の役員;安治郎は村の収入役
<ウイットを解する母>
[写真3-4-2] (康男の母・たか)
3-4-3 近藤康男の弟妹
 1,次男芳夫;明治三十四年生まれ、師範学校を出て教師になったが昭和十二年結核で死亡三十六歳であった。
 2,長女みちえ;明治三十九年生まれ、女学校を出て嫁に行ったが昭和十一年結核で死亡三十歳であった。
 3,三男信夫;明治四十二年生まれ、自宅で養鶏・雌雄鑑別師として父母同居 昭和二十二年結核で死亡三十八歳であった。
 4,次女はるえ;明治四十五年生まれ、兄弟で一番早く結核に感染し、昭和四年死亡十八歳であった。
 5,四男一夫;大正四年生まれ、成人して名古屋の軍隊に入ったが昭和十四年 陸軍病院で死亡二十四歳であった。
 6,五男行夫;大正九年生まれ、商業学校を出て満州に就職したが軍隊に召集され昭和二十年フィリピンで戦死二十五歳であった。



(以上は1999年に公開、以下は2000年1月追加更新)

■1911(明治44)年・・・・1920(大正9)年
4章、激変の大正時代     
---- 小学高等科から愛知二中、八高へ--------


4-1 一九一〇年代の光と蔭
4-2 人生最初の岐路
[写真4-1] 
 1,康男の小学校卒業写真;明治四十四年三月後列左から八人め。
 2,大正時代の小学校校舎;康男はここで高等科まで在学した。
4-3 養蚕ブーム
[写真4-2] 養蚕の上簇(ぞく)作業
[図表4-1] 近藤家の年間収入の変化・大正時代概算
[図表4-2] 大正七年の繭生産量と収入額
[写真4-3] 「模範桑園ニ関スル日誌」(近藤安治郎、天地返し、収量年計)
4-4 母屋は蚕室・農民的自給経済
4-5 愛知県立第二中学校…人生劇場
[写真4-4] 愛知二中卒業記念(第十九回・大正七年)
4-6 第八高等学校…我ら何をなすべきか
[写真4-5] 八高の仲間(二枚)中央が近藤
4-7 デモクラシーを求める大正時代
[写真4-6] 当時の新聞切り抜き(米騒動、<鈴弁殺し>、小作問題(二枚)
4-8 農業経済学科への進学
4-9 同学の親友
[写真4-7] 八高時代の斎藤昇、東大農学部時代・伊豆大島の椿見物、
[写真4-8] 「ロチデール消費組合の先駆者」(パンフ)
参考文献
4-1、『父のいる風景』上 日本経済評論社 一九八二年
4-2、『岡崎高校九十年史』創立九十周年記念事業実行委員会昭和六十二年
4-3、『昭和農政経済名著集』第二巻月報 農文協一九八一年
4-4、『斎藤昇先生追悼録』 追悼録刊行会 昭和五十二年
4-5、『ロッチデール・消費組合の先駆者』 産業組合中央会 一九二五年



■1921(大正10)年・・・・・1930(昭和5)年
5章、農業問題と取り組む途

5-1、小作争議は社会問題   
[付表・小作争議の件数と参加人員]
(注)日本農民組合創立 大正十一年、この頃まで小作側優勢。
5-2 駒場の農学部時代…駒場の伝統・実学の学風
5-3 本科と実科の共棲…農学は舌耕に非ず
5-4 農場実習…十二鍬法
5-5 卒業論文…統計・実態調査の芽生え
 [注一 第一次大戦後の反動恐慌]
 [注二 米価の変動率]
5-6 生産重視の学問体系…農業経営学から農業経済学へ
5-6-1 チュウネンとの出会い…チュウネンからマルクスへ
5-7 古在由直鉱毒研究論文の支え
5-8 農産物生産費構成の分析という視点


■1931(昭和6)年・・・・1940(昭和15)年
6章、恐慌から戦争への途
  
マルクス経済学の立場に立つ最初の『農業経済論』

6-1、ローザ・ルクセンブルグへの関心
6-2、『農業経済論』の著作
6-3、『農業経済論』の改訂
6-4、昭和恐慌
6-5、昭和農業恐慌
6-6、硫安ダンピング
  …農産物シェーレのメカニズム…
6-7、産業組合…反産運動
 (注)昭和恐慌期における肥料取扱い高の変化
6-8、満州農業移民
…大日向村の分村移住…
<まえがき>
 戦争中の経験で、語り残して置かねばならないことの一つは、満州農業移民のことである。
6-9、月山丸にて
6-10、「共存同貧」


以下、
7章、戦争の激化と思想弾圧
8章、敗戦と民主革命
 執筆中

若き日     履 歴     著 作
『七十歳からの人生』 二十世紀の農村


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