2000/01/04 原田 勉
1931年・・・・・1940年 恐慌から戦争への途
6章、マルクス経済学の立場に立つ最初の『農業経済論』
6ー1、ローザ・ルクセンブルグへの関心
農産物生産費の調査をすすめる一方で、先にあげた『資本論』やローザ・ルクセンブルグの『資本蓄積論』を読んでいた。ローザにとくに関心を持ったことについて近藤は次のように語っている。
「結局僕の問題としてもっている日本の農業の問題を考えつつ、いろんなものを読んでいるときにローザが非常に面白く読めたのは、つまり総資本の再生産のなかで、拡張再生産の前提条件として追加の購買力を、国内の農民経済の自給経済を分解して、商品経済に引っ張り込み、国内に追加の市場をつくるということ。それでも間に合わないから植民地、外国市場を求める。そういう点でこれこそわが学問の体系と思ったのでしょうね。」
「総資本の再生産を考えるばあいは価値の再生産も必要だけれども、同時に現物形態の使用価値としての循環、再生産も必要だということで、そこで食糧であるとか、植民地からのものをもってきて拡張再生産が行き詰まるのを打開するというような問題が出てくるわけです。
ローザを学んで国民経済的には、農業基本法の理論的指導者が言っているように、儲かるものをつくれといってすませるわけにはいかないところに日本の農業問題があることを会得したのです。」
さらにローザからヒルファーディングの『金融資本論』を読み、具体的な構想が浮かんできた。
6ー2、『農業経済論』の著作
昭和六年助教授になった直後の夏、三河三谷の海岸にこもって『農業経済論・・・資本主義と農業』(一九三四年)を書き上げた。近藤の農業経済学の方法論とそれに基づいた体系を示すものであった。
「それを一口で言えば、農業問題は、経済的には、総資本の拡張再生産に関連して起こる問題であるという認識の上に立っている。」
「現実の資本主義は、国内ではまだ完全に資本主義の生産関係に入りきらない農民経済を収奪し、さらに国外に手を延ばして、植民地の収奪によって帝国主義という性格をもつに至っている。「農業問題」と「植民地問題」というものをこのように位置づけ、そこまで探求を進めようとするのが」
基本的姿勢であった。これは第一章緒論に展開された。
第二章では地代を中心として農業における生産関係の特殊性をのべている。つまり土地所有をめぐる地主小作という関係が基本になり、日本では資本制地代ではなく、現物地代や労働地代など封建的なかたちが残っている。それが農民を圧迫していることを認識の基本におかねばならない。
そのため多数の小作農が貧農化し、過剰人口として農村に留まり、低賃金のもとになり、女工哀史がうまれている。輸出品のソシアル・ダンピングの非難をうけるのもこのためである。
農民の貧困は過労を、女子・幼年まで及ぼし、睡眠時間を奪う。ここに有名な文章が書かれた。
「過労・・・これこそ百の禍の伏するところである。
農人(のうど)は戻るし
団子汁ア煮えず
杓子は見えず
赤子は泣くし
やれ尻掻いや
いかなる労働運動家の熱弁も、大学教授の著述も、わが国農業労働事情に 関しては、この数句に優る表現を見いだすことは困難であろう。」
第三章から第五章まで、農業が資本にとって蓄積する過程でどのような役割を果たすのか、商品の販売と購買の両面から見ている。農産物の商品化はどのように進んでいるか。広く追及し、中でも繭取引では典型的な独占資本の支配を、煙草専売では国家資本の統制による農民支配を挙げている。
販売市場は、資本の工業生産物を農業・農民に売り込むもので、独占価格で販路を拡大し利潤を得ていく。その事によって買う必要は売る必要となって、農民の商品生産化、農業の近代化を促すのである。肥料や農業機械、水利土木事業による農村支配など豊富な資料にもとずいて克明に描いた。
そして、これらの近代化は土地問題の解決を迫る。地主制のもとにある小作農は金肥を用いて多肥農業をすることはできるが、土地改良への投資が出来ない。トラクターやコンバインは規模の零細な農民の採算には乗らないという矛盾にぶっつかる。資本が高い生産性をもった技術を農業へもちこむ時、生産関係の問題に立ち帰らざるをえない(この問題は現在の基盤整備など構造改善においても当面する問題である)。
第五章は投資・・・植民地農業の支配の問題で国内で見られた販売・購買の問題がより拡大された規模で、投資・資本輸出という形をとって、暴力的に行われる。この本では朝鮮・台湾の例をあげたが、古今東西、現在でも発展途上国の援助とか開発輸入という名でより大規模に行われているところである。
6ー3、『農業経済論』の改訂
以上の体系をもった『農業経済論』は多くの読者を得て、中には農業経済学専攻の決意を促し、一生を農業問題の研究につくすという青年まで産みだした。石渡貞雄は「わが国において、マルクス経済学の立場から書かれた最初の農業経済学書」と高く評価した。
しかし、それだけに出版後の激動期に思想弾圧の波を強くうけ、大幅な削除・改版を余儀なくされた。その詳細は後に章(第七章)を改めて展開する。これは右からの批判であるが、左翼からの批判もあった。
当時のいわゆる講座派の人達から、「日本の土地所有の特殊性を過小評価している。地主と言うものはいつも積極的な意義をもつものと誤読されるおそれがある」という批判である。これに対して、「現物地代の進歩性」を言い、「地主は明治中葉に至るまでわが国農業における生産力の発展形態であった。わが国において米の販売者は地主である。資本の本源的蓄積も主として地主の手によってであった。・・・」などの部分を改版の際削除した。
くわしくは『近藤康男著作集第二巻』をひもといて頂きたい。ここには近藤の代表的著作である『農業経済論』初版が全文復刻収録され、改訂版の序と目次も参考に掲げてある。同時期に出版した双生児『農産物生産費の研究』もあわせて収録されている。
近藤はこの時期毎年一、二册の著作を発表している。それは大正末期から昭和初期という第一次世界大戦後の不況がしだいに深刻化し、昭和恐慌から世界恐慌へと展開したときである。その激動期に日本農業も大きな影響をうけ、その問題を明らかにしようとする献身の現れでもある。
ここに昭和恐慌期の内外情勢を概括し、激動期における近藤の対応を追究してみよう。
6ー4、昭和恐慌
第一次世界大戦によってわが国がそれまで経験した経済の繁栄とデモクラシーの時代は、終戦の大正八年を頂上として、その後は下り坂一途であった。大正十二年の関東大震災が困難を倍増した。長い不況の連続は銀行の信用に対する不安となり昭和二年の金融恐慌となった。弱小銀行には取付に遭い破産するものを生じ、財閥系大銀行への資金の集積となった。
しかし第一次世界大戦後の欧米の経済状態はわが国のそれと比ぶべくもなく厳しいものであった。天文学的な賠償金を負ったドイツ、荷車一台の資材の価格は一台の荷車を要する貨幣と言われるインフレに襲われたドイツ。それをドーズ案によってアメリカが立ち直らせようとしたのである。イギリスは金本位制を放棄した。アメリカ経済も必然に弱まった。昭和四年十月ニューヨーク証券市場の大暴落となり、それがアメリカの恐慌に留まらず、世界各国を巻き込んで世界大恐慌となったのである。
東京証券市場はニューヨークの翌日これを受けて暴落し、以後各方面に伝わりつつ止めどなき下落を続けることになる。わが国経済は広く多方面にわたり不況が続き、この時期を昭和恐慌と呼ぶのである。
昭和恐慌の影響を深刻なものとしたひとつの要因として、恐慌発生と時を同じくして強行された金解禁政策がある。昭和四年七月政権を得た民政党(浜口・井上)はそれまでの政友会が不況に対して採ってきた姑息な救済政策が不合理なものを温存したのを整理して経済を健全な基礎の上に建設すべきだとし、行政整理や海軍軍縮を行い、金輸出解禁を断行した。しかも円平価(一ドル二円)を保って安定させようというのである。この実施の時期がニューヨーク株式大暴落の時期と重なったのであるから、不況への影響は深刻であって中小企業や労働者、農業農民にとって堪え難い時代となったのである。
当時の状況を顧みると、証券の下落は止まるところなかったし、商品市場も混乱、金融閉塞であるから、弱小の企業の破産や休業は続出し、大企業も整理・合理化を図らねばならなかったので失業者の数が多くなり、労働争議も頻発した。
内務省がわが国最初の全国的失業者調査を実施したのが昭和四年である。
この時期の失業について特に注意されることは、知識階級の失業が多かったことである。昭和七年の大学卒業生の就職は三割であったという。文部省がインテリ失業救済の臨時的予算を計上せねばならなかった時代である。
6ー5、昭和農業恐慌
しかし、昭和恐慌の最大の被害者は農業・農民であった。先ず生糸市場の価格暴落である。アメリカの不況が贅沢品への購買力を奪い、スフという代用品の出現によるのである。昭和五年五月の生糸市場価格の暴落はそのまま春蚕の繭価に転嫁されて、これまで新繭一貫目が六、七円であったのが三円以下となって、定着し、農家の最大の現金収入源は崩れ去った。
農業恐慌が米作にまで及び、米価が低落したのは繭の場合より一年あまり遅れて昭和六年十一月である。この年の大豊作によった下落であって、農林省の米収穫高予想の発表が引き金となり、それまで一石三〇円を保っていた正米相場が、一挙に一九円まで下がった。農家はこれを「豊作飢饉」と呼んでいた。
ところが、翌昭和七年は激しい冷害で、一転して「凶作飢饉」となった。それが三年も続いたから、東北・北海道の農村は悲惨というほかない状態となった。口減らしのため娘を売るという類の報道が続いた。五・一五事件の犯人達がその動機として述べたのは「東北農村の悲惨な状況をみるに忍びず」と言うことであった。昭和七年に臨時議会がもたれ、東北救済が主題となった。「農山漁村、中小商工匡済」のための臨時議会である。
この臨時議会の一議題となる農村負債問題がある。帝国農会は、昭和四年六月恐慌の入り口の段階で、各種銀行への問い合わせと系統農会を通じての調査によって、農家負債調査を行い推計して「農家負債は三〇億円を下らない」と公表している。この調査は大地主の土地担保による勧業銀行からの借り入れなど農村救済としがたい金融を含んでいたり、農家が春の肥料代を米肥商から借りていたのが秋の収穫で清算できず負債となったものなどを充分にみていないなど不十分ではあるが貴重な調査資料である。
農業恐慌のばあい負債が問題になるのは、農産物の価格低下率が農家購入品の値下がり率よりも大きいシェーレのために、農家負担が不当に重くなるためであるが、過去に負った負債の年賦償還額や利息は額が固定しているものであるから、シェーレ以上にシェーレ的作用を及ぼすのである。同様な作用をするものとして、固定した地価に対する一定の税率で課せられる地租があり、大正好況下で実施した土地改良の償還が管理運営費とともに課せられる耕地整理組合費が租税に準じた厳しさで農民の負担となっている。これらが米価低落した農業恐慌に際して負債と同様農家の肩に重くのしかかることは明白であってモラトリアの税率低下要求などしか農家の打つ手はない問題である。
だから、シェーレの問題として具体的に分析と理論を要する問題は、繭や米など農産物価格の低落率と肥料など農家購入物資の価格低落率の差による農家負担の増加の問題であり、農村問題の研究を志した私が最初に取り組んだのは、肥料問題と呼ばれていたこの問題である。
6ー6、硫安ダンピング
・・・農産物シェーレのメカニズム・・・
肥料は当時の農家にとっては最大の現金支出項目であった。そして当時の財界にとって、硫安の国内自給と肥料の配給組織を合理化するという二問題を抱えていた。
大正好況期には大豆粕が稲作肥料の首座を占めていた。それは第一次世界大戦で欧米が東洋市場に眼を向ける余裕のなかったのに乗じて日本が中国市場などを独占し綿製品などの輸出を伸ばしたのに見合った大豆・大豆粕の輸入によるものであった。そのため硫安生産は小規模のものだけであった。大戦が終わり、日本も不況が続き、金融恐慌によって財閥の大銀行に資金が集積したが、不況で投資の場がないときになって、財閥資本は発電事業、それと結んで硫安生産への投資が始まった。しかし、欧米と比べて立ち遅れドイツなどからの硫安ダンピングと闘わねばならなかったのである。
ドイツの化学工業は、大戦中に軍需を基礎にして空中窒素固定工業が大きく発展し、戦後はそれが硫安生産に転換し、国内の肥料需要を充たした上に余剰の生産物の海外販路を求めて日本がその目標であった。英国は製鉄業の副生硫安であったが、やはり余剰生産物の販路を求めており、昭和二年に独英が協定して日本向け価格の五パーセント引き下げをしたのであった。さらにアメリカからの輸入も加わり、昭和四年のわが国硫安供給の半ば以上を輸入硫安が占める状態であった。
これに対して日本窒素(三菱)、電気化学(三井)をもつ日本財閥は一致協力(化学肥料カルテル)して政府に不当廉売防止法の適用を求めて闘った。それは農会などの反対もあって実現しなかったが、政変により政友会(高橋蔵相)の手によって金輸出再禁止・金本位制離脱がおこなわれ輸入硫安は阻止された。財閥による朝鮮窒素、昭和肥料などは完成稼働して、硫安の国内自給はなしとげられた。
しかし、昭和恐慌の中で進行した硫安の国内自給は、昭和六年の満州事変に始まり、日本の国際連盟脱退、中国侵略、太平洋戦争への民族的決定と同じ方向の決定ではなかっただろうか。
昭和恐慌の過程における農産物と農家購入物資の価格下落率を比較するため、
米と硫安(国産)を代表として見ると次の通りである。
卸売物価指数 五五パーセント
正 米 五一パーセント
硫 安 五九パーセント
明白に恐慌期におけるシェーレの現象を示している。以上に述べた硫安ダンピング問題の過程は、このシェーレ現象の起こるメカニズムが独占資本による協力(カルテル)、恐慌の被害の農民への転嫁であることを語っている。
6ー7、産業組合・・・反産運動
財閥資本にとって第一課題であった輸入硫安を排除して硫安の国内自給を果たしたことは、同時に大豆粕という農業的生産物を稲作肥料の首座から引き降ろして、自らその座に着くことであった。そして直ちに硫安の配給・流通を近代的・合理的な組織に移行させるという第二の問題に当面した。
これまで、肥料の代表が大豆粕であった時代の肥料流通組織は問屋・小売商の商業組織であったが、米肥商と言われたように、春の肥料代を払えない農家に肥料代を前貸しし、秋の収穫米を確保するだけでなく、高利貸的な清算をして農家を苦しめたものである。
昭和恐慌でそれが一般化して農村疲弊の原因ともなっていた。農林省は産業組合の組織強化による農村振興を伝統的政策としており、特に肥料については大正十二年全購連が設立され、昭和六年には肥料配給改善助成制度を出発させるなどによって、古い問屋による肥料配給を崩していった。恐慌の中で肥料消費高は大きく減少したが、その中で全購連の扱い高は増加するなど旧体制の崩壊に当面し肥料問屋を中心として全購連を目標とする反産運動となった。この運動は商工会議所によって行われたが、そのなかで財閥資本を組織員とする部門は反産運動に参加せず、古い商業組織が産業組合の組織によって合理的な配給組織に生まれ変わることを支持する態度を明らかにした。例えば、東電余剰電力によって設けられた昭和肥料の如きは、その生産する硫安などの販売を専ら産業組合組織によっていた。
産業組合系統による農村流通の組織化は不況対策としての米の統制強化とともに進み、昭和六年先ず全国米穀販売購買組合連合会(全販連)の設立で政府米の買い上げを代行し、やがて戦時統制として、政府が米を配給する食糧管理制度となってゆくのであるが、米の集荷を実施する実務組織として産業組合系統が用いられ、民間の商業組織がすべて解消されるのである。
(注)昭和恐慌期における肥料取扱い高の変化 単位100万円(当時)
| . |
昭和4年 |
5年 |
6年 |
| 肥料消費総額 |
316 |
244 |
185 |
| 産業組合取扱い高 |
63 |
55 |
42 |
| 内、全購連取扱い高 |
8 |
10 |
16 |
| 農会・農業団体取扱い高 |
43 |
35 |
23 |
| 以上差引、営業者取扱い高 |
209 |
152 |
119 |
(近藤著 協同組合原論 267頁)
6ー8、満州農業移民
・・・大日向村の分村移住・・・
<まえがき>戦争中の経験で、語り残して置かねばならないことの一つは、満州農業移民のことである。
私は、分村移住の第一陣として有名となった大日向村の満州移住地を昭和十三年十月に訪問した。そのことを中心に、あの時代の国策として進められた満州農業移民について記すことにしよう。
分村移住政策というのは、これまでの拓務省の第一次・第二次の移民団は、その名も満蒙開拓義勇軍といって、若い在郷軍人を資格者とした軍の別働隊であって、抵抗は武力で排して満州の農村へ割り込ませる考えで昭和七年から毎年一団づつ出していたのである。それが、どうやら定着する見込みがついたので、もっと大量の移民をという要求と、農林省が農業恐慌対策として町村を援助してきた農村経済更生計画の一つとして町村に計画させようという国策であって、この方式で、二〇年間に一五〇万戸、五〇〇万人を満州へ移住させるという大計画の基本と考えられていたものである。
農村窮乏の原因を農村人口過剰・農業経営規模の零細性に求める認識に基づき、農村の経済更生には過剰人口の処理が必要であるとする農林省的考え方と、満州支配の基礎としての農業移民を求める関東軍の要求と結びついたのが満州農業移民という国策であった。
昭和十二年に移住という形が生まれた所以である。大日向村はその第一号である。
農林省の分村移民の呼びかけに反応を示した町村は少なくなかったので、農村更生協会の企画した満州農業移民地視察団には、分村移住を考慮中の村長を中心に全国の町村から四六名が参加し、昭和十三年一月出発した。大日向村の分村移住が全員入植完了後四カ月であった。団長は私。団長の主要な任務は、彼の地に渡ってから、時々東京を望んで「天皇陛下万歳」の音頭をとることであった。
6ー9、月山丸にて
移民地は北満であったから新潟港から海路清津を経て、図們(トモン)から満州国へ入るのが普通であった。
新潟から清津までは、船中二泊の旅である。私のノートの第一頁に、「月山丸の甲板にて荷役を見る」とある。馬、山羊、ストーブ、農具、布団などなど。すべて移住地に向けた必需品が雑然と甲板に置いてある。そういう人間生活にとって第一義的な類の荷物のなかに、カラフルな子供用三輪車が、何の包装をするでもなく、混じっているのが目立った。荷札を見ると「千振」行きとある。
千振というのは「満州」移民の初期、満蒙開拓義勇軍といった頃の第二次集団農業移民の村である。昭和八年の夏に渡航した五〇〇名の在郷軍人が困苦と闘っていた所であるが、有名になったのは、日本から招いた花嫁一三〇名が「百花爛漫として一隻の汽船に乗り込み、満艦飾で松花江を下り、佳木斯(チャムス)の碼頭(はとば)に到着した」という新聞報道である。千振の移民団が入植してすでに五年になる。多数の花嫁を迎えて四年になる。生まれた子供は日本の祖父母が三輪車を届けてやりたい年齢になっているはずである。
月山丸の甲板の状況は、当時の主要な国策であった満州農業移民政策が、ようやく板についたものとなったことを語っていると私は思った。
船内で配布されたパンフレットは満州の事情をいろいろ説明するものであった。私が注意して読んだのは満鉄弘報双書第一号「満州は移民の樂土」(昭和十二年三月)であって、拓務省移民の第一次・第二次とが入植直後に匪賊の襲撃に対して困難に耐えて闘ってくれたので、現在は治安は良くなり、満州が移民の樂土となる可能性を証明したと次のように告げていた。
「第一次、第二次移民は処女地開拓の苦闘にも増して、生命の安危に拘る匪賊との、血みどろの争闘をつづけねばならなかった。
そして、昭和九年五月には第一次、第二次移民とも数千名の匪賊に包囲されながら、頑強に移民地を守備して一歩も匪賊の闖入を許さず匪賊を遠く退散せしめたのであった。しかし、第一次移民は十数回の戦闘に一三名の戦死者を出し、第二次移民は一八回に一一名の戦死者を出したのである。移民は広大な移民地に入りながら、匪賊との争闘によって、昭和八年、九年は殆ど農耕すらも出来ない状態におかれ退団者相次ぐという悲境に遭遇したのである。
第一次移民の退団者は一〇年末に一八七名に及び、第二次移民に於いても十一年八月末団員数二八五名であるから、これも第一次と同様の激減を示し、約四割が退団したということになる。
退団者四割、現在定着者六割ということは、試験移民として残した貴重な実情報告といわなければならない。なんとなれば日本人の満州移民が可能か否かの問題は、実は、この六割が退団者に属するか定着者に属するかの問題であったのだから。
それだけ、第一次、第二次移民が、先駆者としての心意気は物凄かった。
「我々は満州の地に降された神国日本の使徒である。かつて、神代の昔、高天原に天孫が降臨されたやうに、我々は北満州の一角に新しい高天原を築くのだ」という信念に燃えている。
第一次移民団は、その移民地に弥栄村と名づけた。第二次移民団は、移民区域の満州名<七虎力・チフリ>を日本風にして千振郷と呼んでいる。
過去五カ年にわたって、三十余回の交戦において移民団が示した果敢な戦闘ぶりに付近の大小匪団は、もはや移民団にたいしては敢えて手出しをしょうとしないまでになり、十一年は田畑一千町歩余の作付けを行った。共同耕作であるが、一戸当たり三町歩に相当する。千振郷ではその他に二千七百町歩ほどの小作までさせている。今後、開墾完成のあかつきには一戸あたり畑八町歩、水田二町歩、林牧地一〇町歩の割合となる筈で、すでに用地の商租もすまされている。
弥栄村でも、千振郷でも、最初、単身移民であった者がもはや家族を迎え個人家屋も九分九厘まで完成して永住の相をみせはじめた。
弥栄村の昭和十年末現在の有様を見ると移民三一〇名の中、妻を迎えた者が二二三人、弥栄村で生れた赤ちゃんが九九人、村員合計六七六名となっている。 千振郷でも、十一年八月末郷員二八五名の中、二四六人までは内地から妻を迎え現地で生まれた赤ん坊は一〇五人という大量生産である。
弥栄村においては、昭和十一年十月十五日(チャムス上陸四周年記念日)に翌十二年の紀元節をもって完全な独立経営に移る旨を宣言、移民もいよいよ一人だちするようになったわけである。」
満鉄弘報双書「満州は移民の樂土」はこのように満州農業移民の初期の困難とその克服を詳しく述べたのに加えて、拓務省移民はその後毎年一回づつ第三、第四、第五次が送られ、昭和十二年には第六次移民が予定されていること、拓務省移民以外にも宗教団体その他いろいろな自由集団移民が各地に入植していることを告げ、さらに満州国政府、満鉄、日本財閥の出資による満州拓殖会社が設けられ、今後は移民に対し積極的な助成をしようとし、百万戸五百万人移民二十ケ年計画も進められていること、その計画の一部として移民五ケ年十万戸の実施計画が当局で立案され、その初年度たる昭和十二年は集団移民五千戸、自由移民千戸、が送られることになっており、十三年度以後も次々と予定されると告げている。私たちが月山丸によって、視察に出かけた第一の目標である大日向村分村移住団は、こうした流れの中で行われた入植であった。
6ー10、「共存同貧」
清津を午後二時出発し、車中で一泊、翌朝九時に目的地四家房駅に到着する。朝鮮と満州国との国境、図們を通ったわけであるが、ノートに何も記入していないのは、税関その他の手続きが省略されていたのであろう。迎えのトラックを途中で捨てるような悪路を歩いて、新大日向村に着いた。四家房移民団本部で団長堀川清躬氏から話を聞いた。
氏は大日向村産業組合の専務理事をしていた人である。母村の人口を二分してこの地に新大日向村を建設する構想をもって移ったのである。
「私の母村は四〇〇戸の農家が、僅かに水田五〇町歩と畑二五〇町歩を耕し、炭焼きする山林四〇〇〇町歩で食っている”共存同貧”の村であることが分村移住に踏み切るようになった主要な理由である」というのが最初の言葉であった。 氏はその「同貧」の内容を少しも語らなかったが、村長たちにはよく判っていた。その解消のために分村移住に踏み切るべきか否やを考える視察旅行である。説明は必要でなかった。その点の質問もなかった。
しかし、今、戦争経験を若い世代の人たちに語ろうとしている私はちがう。
その同貧と堀川団長が言ったことを告げなくてはならない。
大日向村の「共同同貧」をよく伝えているものに「大日向村分村計画の解説」(昭和一三年)がある。大日向村の分村の入植が半分済んだ時に、この分村計画第一号がどんなものかを広く知らせるために、長野県更生協会が会を催し、村長や産業組合長に解説をして貰った記録である。同村の貧窮状態を同書によってよく理解することができる。
長野県南佐久郡大日向村は千曲川の上支流に沿って東西二里、八つの集落、四〇〇戸の山村である。南側に連なる高い山々の蔭で、村名に反した日陰村で、昔から「半日村」と言われていたと和田伝の小説「大日向村」の冒頭で紹介されている。
戸数に比べて耕地が少なく、山腹の傾斜を開墾した猫の額のような田畑が多い。村内で収穫する米や雑穀で村民の食糧を五ヵ月しか支えられない。養蚕と炭焼きの稼ぎで生活していたのである。
ところが、村の現金収入の第一であった養蚕が、昭和二年に始まった農業恐慌で駄目になった。一貫七円した繭が三円になったのである。そこで村中が山の炭焼きに殺到した。木炭も安くはなったが、これは稼げば収入になるので炭焼きが急増し、炭焼き専業者が七〇戸、副業一三〇戸にもなった。浅川村長の説明によると、村有林は大正八年から施業案を設け、毎年一〇〇町歩を伐採していたのを、昭和五年にこれを破り、原木払い下げをし、その後もそれを続けねばならなかった。そのため、広い山も過伐に過伐が重なり、村内の山はすべて哀れなものとなり、小説「大日向村」の最初に登場する村長が納税督促のため訪問する最初の家の主人は、遠く十国峠を越えて群馬県の山で炭焼きをしている、というのが現状である。
昭和農業恐慌は世界中を巻き込んだ恐慌の一環であったから、日本経済も増加する人口に順調なエンプロイメントを提供する事が出来なかった。山村では増加する労働力はそのまま地場に停滞せねばならないのがあの時代の実情であった。 明治十三年に戸数二四一戸の平和な大日向村が、明治・大正の養蚕景気の時代を経て、四〇〇戸に増加していたのである。それが昭和農業恐慌に当面して、過剰人口の捌け口なしに停滞したのであった。養蚕景気の時代に借り入れた負債がそのまま残っていた。毎年の利子も払えなくなった。昭和八年、村の青年会の調べたものがあって、負債は一戸平均一千二百円であった。元金に高率の利子が加わって、それ以後は増加しているに相違ない。
浅川村長は、昭和十年、乞われて村政の建て直しのため帰村した人である。村の四本柱(役場・小学校・農会・産業組合)の役職員が、毎月日を決めて寄り合って打ち合わせをする会であるが、浅川村長によると、その席で、「わが村は何ほどの戸数が適正であろうか」という設問をした者があったと言う。過剰人口・過剰戸数という観念は下層農は身をもって感じていたし、村の指導層のなかにはあったに相違ない。
山村の人口圧力が平場のそれよりも厳しいのは一般的であって大日向村は山村の代表とも言うべきところである。分村移住が国策の一つとして提起され、大日向村がそれを実施するための規程を出し、村当局や産業組合専務であった堀川氏などの熱心な誘導があってのうえ、分村に参加して渡満したいとする者が「われもわれもと希望した」と「大日向村分村計画の解説」で書いている。
堀川団長は、分村計画が順調に進行したことを次のように語った。
「分村移住ということを私が始めて耳にしたのは昨年(昭和十二年)の三月 末、小学教師と二人で検分にきて五月五日に帰朝報告、七月には先遣隊を友部の訓練所へ、今年の一月にはそれをハルピン訓練所へ移らせ、二月には千振の第一次移住地を経てここへ入植した。隊員三七名。直ちに共同家屋の建設が始まった。
引き続いて入植者が到着し、家族招致がなされ、合計二〇〇戸になる予定である。現在最高齢者八九歳の老婆から満州丸の船室で生まれたマリ子嬢に至る年齢構成は、渡航後に挙式した二組の新婚を含んで、正常な村の構造をもっている。分村移住には屯墾病はない。」
新大日向村の概況について次のように言った。
「新大日向村は総面積公称八〇〇〇町歩、うち水田一〇〇〇町歩、畑二五〇〇町歩、未墾地五〇〇町歩、山林四〇〇〇町歩で、四〇〇戸までは収容力がある。水稲栽培は、朝鮮人の方式に従えば、労費を多く投じないで可能である。入植三年でひと通りの整備を終え、土地も分割して個別経営にしたい」
以下、
7章、戦争の激化と思想弾圧
8章、敗戦と民主革命
執筆中
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