
2000/01/04 原田 勉1921年・・・・・1930年
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| [付表・小作争議の件数と参加人員] | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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(注)日本農民組合創立 大正十一年、この頃まで小作側優勢。その後地主側反撃に転ず。治安維持法十四年成立、弾圧強化される。小作側は耕作権確保の闘いとなる。昭和初期、農業恐慌の深化により再び小作争議は盛りかえし十年には最高となるが、日中戦争拡大とともに減少する。
大正十一年四月、東京駒場の東大農学部農業経済学科へ入学した近藤は、水を得た魚のように安堵を感じた。
八高の寮で議論を重ねた「われら何をなすべきか」から一歩を踏みだし、農村問題を一生の課題とする途についたからである。
当時は関東大震災の前年で、まだ東京府荏原郡目黒町といっていたが、山手線渋谷駅から歩いて一〇分余りである。
正門には明治十一年開校された駒場農学校以来の太い丸太門柱があり、湧水池と木立の中を通って、事務所や学生寮や食堂などに至るまで佇まいがよいこと。ことに大木になった桂の若葉のみずみずしさは、青春の躍るこころに深い印象を与えた。
事務所のある辺りが駒場農学校時代からの生活センターであった。食堂は昔の由緒ある建物だと聞いた。当時の外人教師の住宅もこのあたりに残っていた。ここから一直線の道が農場へ向かってあり、その両側に各学科の研究室と講義室などがある。農場事務所のうしろに広い畑があった。
農業経済学科では、三年間に農学、法学、経済学にわたって三十数課目を履修することになっていた。自然科学と社会科学とにまたがった総合的学習というのであろうか。これがわが農経学科の特色であった。しかし同級生の多くは社会科学に興味をもった。
今でも近藤の印象に残っている当時の講義は、例えば、民法(高柳賢三)の時「葉煙草一厘事件」という専売局が一農家の一枚の葉タバコ自家消費を専売法違反で追及し、大審院まで争った話。植民政策(矢内原忠雄)で聞いた朝鮮の独立を求める万歳事件の話。財政学(大内兵衛)で聞いた租税転嫁論。そのほか経済では山田盛太郎、平野義太郎、小林良正、法科では蝋山政道、商法の松波仁一郎、憲法の清水澄などが本郷からきて、視野を広くすることに有効であった。
農業経済の専任教授は佐藤寛次、那須皓の二人。楽しかったのは農政学演習(那須皓)で園芸教室の温室のさきに植え込みのテラスがあり、天気が良い日はそこの芝生でやることになっていた。そこでヘンリー・ジョージのプログレス
アンド ポパティを輪読した。
この頃は大正デモクラシー思想が一般化し、社会主義思想が普及した時代でもあった。左翼的な本や論文が次から次へと出版されて、学生の研究会で「賃労働と資本」などをテキストに何人か一緒に読んだ。駒場の農業経済学科の講義には社会主義を主軸にする講義は聞かれなかったが、学生の間にもたれた諸研究会でそれを補い、いわゆるマルクス経済学関係の本などのを読んだ。これは大学を卒業して、助手となり研究生活に入ってからも続き、後に刊行した自著の『農業経済論』や『協同組合原論』を構成する基礎となった。
自然科学の方では、石川千代松、白井光太郎、本多静六、鈴木梅太郎、麻生慶次郎、原ひろし、稲垣乙丙、安藤広太郎など有名な教授の教えを受けた。しかし、専門の講義は記憶に残るようなものは無かった。近藤は自分の家で養蚕や作物栽培を見ていたし、農学の新知識など授かるものは何も無かった。むしろちょっとしたエピソードはおぼえている。
稲垣先生は「霜柱観察のため夜中起きていて、霜柱は根元で伸びるものだ」という発見。本多先生の「夫婦意見が分かれたときは、ジャンケンで決めることを憲法にしている」という話。これは卒業後の話だが、鈴木梅太郎博士が昆布を材料にして何かの成分を抽出することを研究室の誰かにやってもらっているとき「あの種類の昆布は北海道と三陸沖で毎年何万トンくらいはとれるからやってみる価値がある。折角分析が成功しても原料がなくては無駄になるから」という意味のことをつけ加えられた。近藤はそれを聞いたとき、これが駒場の伝統、実学の真髄だと思ったという。ビタミンを発見した化学の大先生が農林統計を自分のものにしていることに驚嘆したのである。
駒場の伝統・実学の学風は何処から生まれたのか、それを糾すには駒場農学校まで遡る必要がある。
明治六年欧米視察から帰国した大久保利通は、国力を強めるためには産業の開発を急務とし、その人材養成のため農学校の設置を計画した。明治七年内藤新宿試験場に農事修学場を仮設し、これを農学校と改称して駒場に移転した。
初めから農学、獣医学、化学等の教師を海外より招聘する方針であり、泰西の学術技芸を輸入すると同時にわが国固有の農法も進展させることにした。農場も英国農機具と馬耕による混同農業を行う泰西農場と在来農法の本邦農場に二分した。
生徒は農学、獣医、化学の専門科、予科、試業科とした。この試業科の生徒が外人教師に率いられ、欧風農具や馬耕によって駒場野の開墾に当たった。学理に偏せず実際にそくして勤労することを重んじ、現業的農業技術の習得ということを主眼とする方針であった。試業科は後に実地農芸科、乙科、実科と名称は変わったが駒場農学に実学の学風を与えたことは確かである。
草創期の農場実習の監督は明治の老農船津伝次平であった。
群馬県令の推薦を受け、とくに大久保が富岡へ出張したとき会って登用した。船津も知遇に感じて勤務、講義の外に実地開墾に従い、仮小屋に住み鉢巻股引きで鍬をとり人夫を督励した。
「ある日大久保は視察にきて船津の姿が見えぬのを怪しみ、人夫に聞けば人夫に伍して労役していた。それでは先に依頼した調査をする時間があるまいと問えば、夜業として為すゆえ支障なしと答へ、また仮屋の独り住まいは寂しかろうと問えば、都人士の想像しえぬ自然の詩境あり、絶えず天籟の妙音があるとて「駒場野や拓き残りにくつわ虫」の一句を示し、大久保は大いに喜び厚く労をねぎらいて去り、船津は深く感激して業務に精励した。」という逸話が伝えられている。
船津伝次平は農業の経験の無い士族学生たちに稲作、畑作、養蚕などの実地経験を教え、玉利喜造、横井時敬、酒勾常明、沢野淳、斎藤萬吉など後年の学者・研究者を養成した。また駒場野の荒野を開墾して熟圃とした功績も大きい。
船津の後をついだ玉利喜造は農場主任と実地農芸科主任を兼ね、持論である「学理に通暁した農業者を養成し、地方の農事改良指導者、模範農業者を教育するため、実習を重視する」ことをその方針とした。
明治二十三年帝国大学農科大学になったとき、実地農芸科は乙科として残り、農場監督は斎藤萬吉助教授に替わった。玉利喜造教授の方針にかない、さらに農場実習を強化する駒場老農派の代表となるのである。
斎藤はドイツ農業経済学の影響をうけたが、それに拘らず講義では日本の実情に即した各地の農業経営の実例を紹介し、また独自に調査し、正しい認識による日本農政学の樹立をめざした。「欧州農法ではなく、小農組織を基礎とし、これを愛護することが国家の義務である」という。これは後に農事試験場技師になって各地を巡回調査し、刊行した『実地経済農業指針』に貫かれている農政思想である。
当時の斎藤は教室でも農場でも毎日古びた縞模様も定かでない背広と夏冬同じハンチングをかぶり、細かく縫い刺した脚胖ばきであったという。農場実習の指導や農村調査では、それに草鞋であった。乙科の学生は同じ服装に菅笠という姿で実習に参加していた。農村指導に当たるものは身分相応より下のものを着用すべし、という信条に基づき、生涯その粗服は変わらなかったという。
彼の没後、門人たちが二本松に建てた墓碑に曰く「教官たることおよそ十六年、常にみずから糞桶を担い鍬を取り、もって生徒を率う。これに教えて曰く、<農学は舌耕(こうしゃく)に非るなり>と」。これは斎藤が農民と深く交わり、農民のために生き神様になろうとした農政思想を表現したものであろう。
近藤康男は斎藤萬吉を尊敬し、自分もその流れではないか、と言いながら、それでも斎藤の勤労主義は時代の大勢であると言う。つまり、当時ようやく農村の階級的分解が進行し、農村の安定勢力となった豪農や地主の子弟を教育の対象とし、卒業後は農村へ帰って村の中堅となるような人物の養成を目標と明確にしたのが乙科である。明治の手作り地主時代の教育上の産物であった。
以上は主として乙科のことであるが、農科大学に昇格した機会に農学本科は農場実習にウエートを置かず、エリートコースの学科と研究に重点をおいた。
しかし、駒場では本科と乙科(実科)とが共棲していたというのが一番正確な表現であった。学習する学科目は本科も乙科も同じものが大部分である。乙科の生徒も実験をする段になると、教授室に入り込み、実験の手伝いをしたり、卒業論文用の実験その他の指導を受ける。ことに初期は生徒数が本科も乙科も少なかったから、寮や下宿で同居する。一番重要なのは乙科の専任教授がいないことである。この点が後にたくさん設立された専門学校と駒場の乙科との相違であって、マイナスだけではなくプラスのほうが多かった。乙科は農科大学の本隊の一部分で付属の施設ではなかった。農科大学の全教授が乙科の教育には責任をもつ建て前になっていたのである。
これはエリートコースを辿って、いわゆる学問をする本科と農村に地盤を有し実習に重点を置く乙科とがひとつの学園に共棲することは、駒場の農学を学問のための学問に走らせず、現実の必要を出発点とする学問たらしめたという効果を無意識のうちにもたらしたと思う。基礎学が学問として高尚で、医学や農学や工学はその応用だという観念論を打ち破っていった農学の歴史の発動力になったものは、この社会の必要に出発するという実学的性格で、この性格の基礎に横たわったのが、本科と乙科の共棲であった。
近藤が入学した大正十一年に農場実習の第一課として教えられたのが江戸鍬による「十二鍬法」である。関東の軽い火山灰土壌を耕す基本的な作業である。柄が長く、柄と袋鍬との角度が鋭角をしている点など近藤が故郷の重い粘土質土壌で見慣れた鍬とは大違いであった。土が黒いのは肥えた熟畑という概念も違っていた。関東ローム層という土壌の特徴で黒いが痩せているという。日本の土壌は殆どが火山灰からなっていて地方によって農具も農法も変わると言うことはのちに判ったことである。
毎週一回の農場実習は鍬鎌を使うもので、大農具の運転や馬耕もなく、草取りばかりだった。単純な作業の繰り返しで忍耐心を養う目的があったかも知れないが本科の学生は一カ年だけ、毎週一回のリクレーションのようなものであった。
しかし、その頃でも農学実科は夏休みも農場の草取りに動員されていた。
明治三十一年斎藤萬吉から原ひろし農場長に替わってから、実習服が変わった。斎藤式の脚胖足袋に菅笠かぶりの老農姿から学生服に麦わら帽子となった。原農場長は学生を集め菅笠を集めて焼却し、今後は学生らしくせよと厳命した。この年から乙科は実科と名称が変わり、自営農民を育成するという老農主義に決別を宣言したのである。
この頃から実科の卒業生は農村に帰っても純粋な寄生地主になるほどの条件を備える者は少なく、農会や産業組合などに勤務する者が多くなった。これは大正時代になるとさらに顕著になり、農林省や農業団体の事務をする者が主流になった。国家独占資本主義時代の農村指導者という名のサラリーマン教育へ移行していった。
原農場長はそういう時代の進行の中で、学生の菅笠を焼きすてさせて老農的泥臭さをぬぐい去り、近代的なセンスをもったサラリーマンの卵として育成することに粉骨砕身した。そして勤労主義という点では変わりないどころか、農場労働で学生を絞り上げることは強化された。
本科と実科の区別は次第になくなったが、新教育の背景になっているものは古い農民をそのままにすることを要求する社会になったことである。忠犬ハチ公の主人である上野英三郎教授が農業土木学の講義のときに「農科大学を卒業する諸君は農業を実際に応用するのではなく、農民をおだてる役をするのだ」と言ったことを、近藤はいまでも覚えているが、当時のことを正確に認識していたと思うという。本科も実科も脱農人員を養成することになっていたのである。
近藤康男が入学したころは既に学年制はなくなり、所定の学科目単位を学習し終えてパスすれば卒業であるが、そこにおのずから学習の順序があって、各学年相当に配当してあった。最期の学年、つまり三学年に配当してある学科目はきわめて少なく、農業経済学を専攻する学生は卒業論文のために時間を多く割くことができた。
卒業論文は、それを書いた人の将来を占う有力な材料になるという。近藤は何を選んだのか。八高時代に「われら何をなすべきか」を議論した当時から見聞していた農村問題は、米騒動などに見られる農産物価格問題、地主・小作問題などであった。現に米騒動のときは隣の福岡町まで友人と様子を見にいったこともある。そこで見たものは町中が早くから灯を落としひっそりと災難のふりかかるのを避けているさまであった。不気味な感じで早々に引き上げたものだった。
大正八年の米価暴騰のあと、<鈴弁殺し>として世を驚かせた事件も新聞でみていた。これは東大農学部出身の農商務省米穀局技師山田憲が、外米商で米価を私的に操作して儲けていた横浜の米成金・鈴木弁蔵をバットで殴り殺し、バラバラにしてトランクにつめ、信濃川に流した事件である。
近藤は卒論のテーマに「米価の変動」を選んだ。
そのとき、駒場の事務室の一隅の書架に先輩の卒論が保存してあった。鈴弁殺しの山田憲の卒論もあった。山田は大正の初めの農学士でテーマは「米価調節私論」という筆で書いた分厚いものであった。そのほか『米価の研究』、罫線学などの本もよく見た。
もちろん米価は日本の農業経済のひとつの象徴である。しかも当時第一次世界大戦の好況によって米価は大正四年にくらべ八年には三、六倍と最高になったが、戦後の反動恐慌によって急落し(注一、二)、上下の変動も大きく社会的問題になっていた。
近藤はそこに着眼した。たとえば米価は当時米穀取引所で自由価格が毎日成立し、新聞の相場欄に掲載された。それが市場用語で通報されるので素人には解りにくい。その解りにくい米相場欄を、毎日判読することを二カ月くらい続けて、市場の動きを理解できるようになった。統計を使って極めて効率のわるい研究であったが、めざすところは、正当な米価の市場における実現ということであった。
そのとき卒論指導をうけた大学院生の山田勝次郎から、「もっと理論的なことをやれ」と言われた。しかし、近藤には草を噛んで水分をとるカンガールのような性格はこのころからあった。統計や実態調査をもとにして具体的なものから帰納して一般的法則を認識しょうとする手法の芽生えを見ることができる。
駒場の実学の学風とともに、日本農業の基本問題に接近する近藤の学風の出発であった。
[注一 第一次大戦後の反動恐慌]
一九一八(大正七)年十一月第一次世界大戦は終わりを告げたが、ヨーロッの復興はむずかしく、アメリカの好況などにより九年初めまで日本の物価上昇は続いた。ことに米価は、大正七年のシベリア出兵をあてこんだ投機買いから始まり、七月から八月にかけてどんどん上昇し、富山をはじめ名古屋、京都、神戸など全国的に米騒動が起こるという非常事態となった。
米騒動の後も米価の上昇はおさまらず、八年の五月には一升五五銭となり九年三月まで高値が続いた。しかし、その後急落し、最低三三銭となり、十年には平均二九銭となった。
同じように生糸相場も大正九年一月高騰、最高値となったが、その後下落の途をたどった。株価は九年四月に暴落、戦後の反動恐慌が始まった。大正十年には不況が深刻化、失業者が続出し、労働争議、小作争議が盛んになった。
その後は総て下り坂を転がり落ちるように落ち込み、さらに関東大震災を経て昭和恐慌へつづく長い不況の谷底を歩んだ。
[注二 米価の変動率]
当時は米の統制がなく、一年のうちでも上下の変動が大きく、地主や米商人の手によって支配されていた。そこで極端な米不足ではなかったにもかかわらず、シベリア出兵の思惑から米価が高騰し、全国的騒動に発展した。ようやく制定された政府による米穀法の公布(大正一〇年)以後は変動も抑制されたが、昭和恐慌の時代は再び変動を大きくした。
平成五年の凶作、米の緊急輸入・コメの自由化が進行する事態を迎え、過去の困難を教訓として参考にしたいと考え煩雑を顧みずあえて掲載した。
(明治四十三年から昭和九年まで、近藤著作集第三巻から)
| 年次 | 年平均 | 最高 | 最低 | 高低の値開 | 平均対比% | ||
| 明治四三年 | 一二・六三 | 一六・一〇 | 一一・〇〇 | 五・一〇 | 四〇・四 | ||
| 四四 | 一七・〇七 | 二〇・一〇 | 一五・〇〇 | 五・一〇 | 二九・九 | ||
| 大正 元年 | 二〇・一五 | 二五・〇〇 | 一六・〇〇 | 九・〇〇 | 四四・七 | ||
| 二 | 二一・五八 | 二三・一〇 | 二〇・二〇 | 二・九〇 | 一三・四 | ||
| 三 | 一七・三九 | 二一・〇〇 | 一二・七〇 | 八・三〇 | 四七・四 | ||
| 四 | 一三・〇二 | 一四・七〇 | 一〇・六〇 | 四・一〇 | 三一・五 | ||
| 五 | 一三・二一 | 一四・六〇 | 一一・九〇 | 二・七〇 | 二〇・四 | ||
| 六 | 一八・五七 | 二五・〇〇 | 一五・一〇 | 九・九〇 | 五三・三 | ||
| 七 | 三〇・〇一 | 四五・五〇 | 二三・三〇 | 二二・二〇 | 七四・〇 | ||
| 八 | 四三・八九 | 五三・五〇 | 三四・七〇 | 一八・八〇 | 四二・八 | ||
| 九 | 四八・六五 | 五五・七〇 | 三三・四〇 | 二二・三〇 | 四五・九 | ||
| 一〇 | 二九・二〇 | 四一・六〇 | 二五・〇〇 | 一六・六〇 | 五六・八 | ||
| 一一 | 三六・八五 | 四一・七〇 | 二九・九〇 | 一八・八〇 | 三二・〇 | ||
| 一二 | 三一・五七 | 三六・二〇 | 二五・七〇 | 一〇・五〇 | 三三・三 | ||
| 一三 | 三七・六四 | 四三・〇〇 | 三四・九〇 | 八・一〇 | 二一・五 | ||
| 一四 | 四一・九五 | 四五・八〇 | 三八・八〇 | 七・〇〇 | 一六・七 | ||
| 昭和 元年 | 三八・四四 | 四二・二〇 | 三六・三〇 | 五・九〇 | 一五・三 | ||
| 二 | 三五・九三 | 三八・三〇 | 三二・七〇 | 五・六〇 | 一五・六 | ||
| 三 | 三一・三八 | 三四・九〇 | 二八・八〇 | 六・一〇 | 一九・四 | ||
| 四 | 二九・一九 | 三一・四〇 | 二七・七〇 | 三・七〇 | 一二・七 | ||
| 五 | 二七・三四 | 三一・六〇 | 一七・六〇 | 一四・〇〇 | 五一・二 | ||
| 六 | 一八・四六 | 二一・六〇 | 一六・九〇 | 四・七〇 | 二五・五 | ||
| 七 | 二〇・六九 | 二二・九〇 | 一七・〇〇 | 五・九〇 | 二八・五 | ||
| 八 | 二一・四二 | 二四・二〇 | 一九・八〇 | 四・四〇 | 二〇・五 | ||
| 九 | 二四・九〇 | 三一・一〇 | 二一・六〇 | 九・五〇 | 三八・二 |
5ー6ー1 チュウネンとの出会い・・・・チュウネンからマルクスへ
大正十四年四月、東京帝国大学農学部助手となった近藤は農業経済学科教授の溜まり室に机を与えられた。指導教授の佐藤寛次から農業経営学が課題として与えられた。
渡辺庸一郎助手と二人が受付である。
この部屋に「渡辺文庫」(渡辺朔氏の寄贈)があった。そこにチュウネン『孤立国』の初版本を見つけたときは掘り出し物だと感激した。
近藤にとって『孤立国』は初恋の本である。チュウネンの名は高等小学校のとき農学校出の若い先生から聞いていた記憶があった。たぶん横井時敬の農業教科書に出ていたのであろう。チュウネン『孤立国』はていねいに熟読した。
熟読したのは、農業経営学と言うものの方法と体系を追究するためであった。当時のアメリカの本などと比べて『孤立国』には全体を貫く理論と方法があった。チュウネンは、時代の課題であったイギリスの進歩的農業の導入を一面的に主張するのでなく、農業展開のための条件の検討という科学性があった。その発見の喜びを昭和三年に出版した『チュウネン孤立国の研究』の序文として発表した。指導教授佐藤寛次の序文となっているが実は近藤が書いて校閲を経たものである。自画自賛で少し長くなるが、的確な表現であり、最初の著作からその後の傾向を示すものとして紹介に値すると思うので引用する。
「チウネンの『孤立国』は今から約一〇〇年前に、ドイツにおいて公にされた名著であって、農学および経済学の両方面からみてはなはだ興味の深い古典である。
彼は農学においても経済学においても黎明期に属する学者であって、『孤立国』の中には後にリービッヒらによって研究された農芸化学の原理や最小率、報酬漸減の法則などが、そのものとしては不完全ではあるが、理論全体の基礎として確立せられているし、今日の経済学において動かすべからざる真理を含むものと認められている差額地代の概念を最も明瞭に論述しているし、また利子、労賃の説明においては、今日の帰属説が多く採用しているところの限界生産性の理論をすでに用いているのである。
このように色々な学説の萌芽が『孤立国』の中に認められるのであって学説史の方面からみてもはなはだ興味あるものであるが、『孤立国』の真の価値はこのような色々な原理が統一されて一つの理論を形づくっている点にあると思う。すなわち全体が一つの学に統一されているのであって、経営学または農業経営学こそ、それに与えらるべき名称であると思う。(後略)」
近藤は『孤立国』の翻訳・研究に二年余りを費やし、原著の翻訳本まで出版した(昭和四年)。しかし、チュウネンの古典を読みながら、その眼はいつも日本の農業・農民の現実に向いていた。ドイツの企業農の観点に立った『孤立国』の考え方、体系というものではもの足りないものがあった。自序の終わりの方でチュウネンを克服しなければならぬと言う。
「私のこの研究が今日の日本の国民経済ないし農業の認識に何物を加えたか。農村問題の解決に幾ばくの貢献をしたか。この問に対し私は心中の熱するを覚える。このような間接的にしか社会に寄与しえない事がらに時間を費やすを* じたく思う時さえある。ああ学問の本格的境地に突き入り、生きた実在をそのままつかむ喜びに浸る日はいつの時に来るであろうか。それは私においては同時にチウネンの克服である。思うに世界において最も多数を占め最も悲惨な生活をしている小農の認識はこのような資本家的農業経営理論の止揚によって可能であり、事態はその止揚を待っているのではなかろうか。私はこのチウネン研究を転期として小農の研究に進みたいと思う。」
近藤の苛立ちにも似たこの表現はどこから来たのか。時代は大正末期から昭和の初め、農産物価格の暴落による農村の不況は次第に深刻さを加え、小作争議の件数も参加人員も最高に達していた。岡崎の実家でも繭価の暴落に喘ぎ、父は養蚕をやめ、村の収入役をしたり、銀行員になったりして脱農の過程を歩んでいた。
日本の農業と農民のことがいつも頭を離れなかった。
昭和二年大学ではオーストリアの碩学アルフレッド・アモンを客員として招き、学生向けの講義を数回したあと、農経教室の研究員のためにゼミナールをかなり長くやってもらった。それは「das
kapital」の輪読である。すでに高畠素之訳の『資本論』もでていたが体系的にマルクスの経済学を勉強する機会となった。大学院生の出席は減るなかでしまいには助手の錦織英夫と近藤だけになった。負担にもなったが勉強になる英語での討論であった。
チュウネンのようにひとつの経営なり、ひとつの個別資本のなかで再生産を考えるのは国民経済的にみると狭すぎる。それでマルクスの『資本論』からローザ・ルクセンブルグの『資本蓄積論』やヒルファーデイングの『金融資本論』を読み進めるに到った。このあたりから農業経営学から脱却し社会科学的農業経済学の思索が醸成されていったといえよう。
動揺する近藤の気持ちを支えてくれる論文を前記渡辺文庫の中に見つけた。古在由直の「足尾銅山鉱毒の研究」(『農学会会報』第一六号明治二十五年八月)である。この事件のいきさつから、論文の要約を述べて近藤の感慨を聞こう。
栃木県足利銅山の鉱毒が渡良瀬川沿岸の作物や魚類に被害を及ぼし始めたのは明治二十年頃からである。被害地の農民代表足利郡毛野村早川忠吾が農科大学に古在をたずねたのは二十三年五月であった。被害地の沈澱土を分析し、その除害と救荒策を求めた。農民たちは県知事にも訴えていたが、自分たちでも、その起因を調べようと志賀重昂に「公平無私情実に流れず精密の調査をなす学士を指名してくれ」と相談し、当時高等師範にいた大内健の紹介状をもって古在助教授を訪ねたのであった。
古在は快く引き受け、長岡助教授とともに現地試験をしてもよいと約束した。早速に土壌分析を行い六月一日には次のように報告している。
「過日来御約束の被害土壌四種調査致候処悉く銅の化合物を含有致し被害の原因全く銅の化合物にあるか如く候(中略)別紙は分析の結果及被害圃の処理法に御座候 不具 古在由直」(『資料足尾鉱毒事件』二一八頁)。
これを手にした農民は彼らのために真実を告げてくれる人を発見し、運動は高揚した。これらの動きにより栃木・群馬両県が正式に農科大学に現地調査を依頼した。古在はその結果を県に届け、一方学術論文としてまとめたのが前記の農学会報論文である。要約すると次のとおりである。
「渡良瀬川流域の耕地不毛の原因とその除害法を研究するため農学士長岡宗好と被害地を巡回し、必要な材料を集めた。
第一、被害地域は七郡二八村にまたがり、総反別一六五〇町歩、・・・大小麦、水陸稲は二、三寸で枯れ、レンゲも四、五寸で萎縮す。被害のひどい所は水田に緑が少しも無い。被害農家の困窮はおして知るべし。
第二、被害の原因を突き止めるため、表土、下層土、沈澱土を多数分析し、銅と硫酸の含有量を調べ、足尾銅山の排水も調べた。その結果は足尾から排出する
水は夥しく銅鉄と硫酸を含む、これは硫黄と化合し、粘土質の泥と混合し、渡良瀬川に沈澱する。これが雨降り水勢が加わると泥が揺れ動き、その水を潅漑すると大いに害あり。
除害策として洪水後、耕耘しない所では沈澱した泥を除去するがよく、耕耘したものには多量の石灰を施し、深耕するがよい。」
この時の調査は五万分の一の地図に碁盤目のような線を引き、そこからサンプルを採集するという方法で、客観的に、公正な立場で資料を集めるという科学者の姿勢であった。現代のランダム・サンプリングに通じる方法である。
公害は明白であった。農民の窮状を訴える激しい運動があり、田中正造の献身的活動があり、古在由直などの勇気ある科学的支援があった。明治三十年五月二十七日には、東京鉱山監督署から、足尾銅山鉱業人古河市兵衛に対して三七項目にわたり、除害施設を指示する命令書が出された。
しかし問題は簡単には解決しなかった。被害は累積していった(後略)。
近藤がこの古在の研究報告を読んで学んだことは、「自然科学者の場合においても、その研究の対象として何を選ぶかについて階級性があり、それについて闘争があるに相違ない。いわんや社会科学を志すばあいにおいてをや」と言うことであった。「農民にとって肥料会社が、小作農にとっては地主が、たばこ耕作者にとっては専売局が、認識と研究の対象にならなくてはならない」と言うことに眼を開いてくれた。研究の階級性を教えてくれたのは、古在由直であった。
近藤の学問体系とその後の経歴に強く影響を与えたのである。
このようにして、近藤の社会主義経済学の研究と、それを武器とする日本農業の当面する諸問題の研究がはじまった。最初にみられるのは農産物生産費の研究である。
農業経営学の確立を念頭にエレボーを読みチュウネンを読んだが、企業家地主の経営学ではなく、そこからの脱却は社会科学としての発展の法則をもとめる農業経済学を打ち立てなくてはならないと考えたのである。
昭和三年から始まる農産物生産費の調査はその後の学問体系を規定する基礎となった。チュウネンのように価格を前提にした学問ではなく価格を解明するという立場で、生産費の研究によって生産の形態を広く認識し、生産関係を明らかにしようという目的があった。資本家的経営者の立場で生産費の低減とか生産過程の合理化という狙いの分析ではない。あくまでも小農の立場にたち、その点からもチュウネンを克服するものであった。
しかし、その方法はやはりチュウネンとおなじと言ってもよい。彼のように自分が農場をもって農業経営をやり、簿記をつけ、その材料を基礎として推論を進めるということはしなかったが、書斎から出て農村の現実から学ぶことは同じ手法であった。
その当時米穀法改正に関して農林省と帝国農会との間に闘わされた米の生産費調査方法の論戦を批判し、正しい調査方法をしめした章を初めとして、カンキツ、茶および製茶の生産費、葉煙草の生産費について、目に見えない構成要素を明らかにした。つまり、費用価格を形成している肥料、農機具、労賃、自家労働や租税、小作料の重要さを量的にしらべたのである。
これは同時に農業と商工業(小生産者と独占資本)との関係を分析するとともに、農業生産に残っている封建的搾取関係、資本主義的生産様式の導入の程度、小農的生産の諸特徴、自給自足経済の程度などを明かにする意図を持っていた。これが生産費の構成を分析する視点である。
この一連の調査は農業経済学科の職員と学生の協力により、恒常的な研究会がもたれ、調査と討論が繰り返されながら、昭和四年から六年にわたって行われた。学問的協同の組織指導者として、また報告書のまとめ役として近藤は中心的責任者となった。そのことを『農産物生産費の研究』の序に次のように述べている。
「なかでも実地調査は易々たる業ではない。一片の数字、半句の説明といえども多くの科学的労働と良心的討究の末に結晶したところの玉である。しかしこの玉は質朴である。もし我々が農民の困難という悲しき問題を幸福に弄ぶ傍観者であるならば、このような研究はつとに捨て去って、もっと容易の途についたであろう。我々と協同の研究者が示した忍耐心は、この問題が結局、自己の属する階級の解かねばならない問題であることの自覚からのみ発するものであると思う。」
近藤の「生産力・生産構造の問題を社会経済との関連の中で分析する」という体系を実態調査によって実証的に証明する手法の本格的始まりである。階級的に誰の立場に立ち、何を対象とするか、その基本が示された宣言であった。
この『農産物生産費の研究』について坂本楠彦は「近藤先生と農業経済学」(『日本農業の地代論的研究』)の中で次のように評価している。
「先生の二元式は、その点において本質的にチュウネンとことなる。第一項の何日という自家労働投下量は、絶対に労賃で評価されなくてはならない。先生の二元式は、絶対に、何円という貨幣量に、一元化されてはならない。小農的な生産関係のもとでは、現実に自家労働が労賃で貨幣評価されていないからこそ、低い生産物価格も高い小作料も、存立することが可能なのであり、労働費の節約や経費の低減等の資本家的恐慌対策が、普及不可能なのである。この点をあきらかにすることこそが、生産費研究の「根本的必要事」なのではないだろうか。」
「先生はこのように独特の生産費理論を完成することによって、念願としていたところの「チュウネンの克服」「資本家的農業経営理論の止揚」のための、必要な最大の関門をとおりぬけた。この生産費理論を簿記的にうらづけるためには、のちに『農業簿記学』(一九三八年)も書かれた。そして先生のその後農村調査は、すべてこの生産費理論にもとづいてなされた。(何日労働)+(何円)という生産費の二元式は、けだし先生の研究史からいえば、大学卒業当時志した農業経営学と、のちにさがしもとめた農業経済学との、二つの科学をむすぶ環となる式となったし、またその後の先生の研究方法からいえば、先生がうちたてようとした農業経済学の理論的体系と、先生が調査し認識した農民経営の現実との、二つをむすぶ環ともなったのである。」
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