
2000/01/04 原田 勉1911年・・・・・1920年
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| . | 給与収入 | 小作収入 | 養蚕収入 | . | |||||
| 年度 | 給 料 | 米 | 米価 | 米収入 | 桑園 | 反収 | 繭価 | 繭収入 | 合 計 |
| 大正元年 | 200 | 12 | 25 | 300 | 5 | 14 | 3 | 210 | 710 |
| 8年 | 200 | 12 | 55 | 660 | 8 | 15 | 9 | 1080 | 1740 |
| 14年 | 200 | 12 | 52 | 624 | 8 | 16 | 10 | 1280 | 2104 |
| 単位 | 円 | 石 | 円 | 円 | 反 | 貫 | 円 | 円 | 円 |
(註)この数字は物価水準の上昇を割引しなくてはならないが、例えば明治三二年を100とする日銀物価指数によると大正元年の物価平均は122に対して米価は169、大正一四年の物価は212に対して米価は271と農産物の上昇率が物価全体の上昇率以上であったことを示している。
以上は近藤の覚え書きによるものであったが、もっと正確な安次郎の「模範桑園ニ関スル日誌」という和綴じ冊子を近藤文庫から発見した(写真参照)。表紙の一部に虫喰いの跡があるが、これは六ツ美村松崎技手の指導で父安治郎が大正五年から七年にかけての桑園改良に努力し、大正七年一年間の収繭量・価格の記録である。
桑園の天地返しをして底に藁と塵芥を鋤込み、元肥を施して改良魯桑と清十郎を植え付け、桑の収量を上げた。その結果年末には桑園八反二畝七歩、春、期夏、夏、秋の四回の養蚕で累計収繭量一八六・四貫、価格一六二七円となった。先の覚え書きの八年度の一・五倍の実績があったのである。ちなみに当時の小学校校長の年収の四倍であった。
このことを近藤は次のように語った。
「わが家の収入は、食糧の基本的部分を自給している点を別として、小作米の代金と、家族労働の結晶である繭代金が二本の柱であって、その二つが大戦景気によって急騰して三倍にもなったことが、私が高等教育まで受ける余剰をもたらしたのである」
養蚕は家族労働を総動員しただけでなく、家族の住宅をも蚕室として奪った。
近藤家の住宅図はまえに述べたように、祖父の代、天保年間に建てたもので、恐らく旧藩時代に農家住宅として指導されたと思われる単純様式で母屋が六部屋と台所と「庭」と呼ぶ広い土間をもち、明治三十年頃に父が増築した別棟三部屋の「座敷」からなっていた。養蚕は四月から九月まで、一年の半ばは畳を上げて、そのうちの五部屋と土間を占領するのである。
近藤家が「むら」一番の養蚕家になったのは、桑園にする畑を多くもっていたことと、この住宅を蚕室に転用して、蚕室を新築する投資なしに養蚕に手をつけることができたからではあるが、康男たち子供は、早く養蚕の季節が終わればと考えていたことである。これが家族労働を動員して行う農民的自給経済というのであろう。
養蚕と稲作の商品生産化は生活のすべてを商品流通を通すものにした。衣料は完全に商品化した。近藤の家には昔の手機織り機とはた子部屋と呼ぶ部屋が残っていたが、手織の「はた子」は邪魔ものになっていた。隣家の地主の奥さんが近所の娘を集めて裁縫の師匠を続けていたのは大正末期までではなかったか。
「母が年に二回、夏と冬の入り口であったと思うが岡崎へ衣料の買い出しに行っていた。山沢屋という店のお得意さまで、昼飯が出ると言うことであった。子供用衣料もあるので母の帰りを待っていた記憶がある」
食だけは基本的に自給である。米麦だけでなく粟・黍など雑穀が普通食であった。近藤の家の麦の混食歩合は三割だった。餅は川田の産物である。米餅のほかに粟や黍など畑作物からの雑穀でつくる粟餅・黍餅があるが、米餅よりはまずい。
しかし、これらの畑作物からの食物は桑畑が拡張されるにつれて無くなった。大豆から味噌をつくるのも年中行事のひとつであったが、これも同じ運命で、味噌は醤油や酒と同じように買うようになった。食物であの頃買っていたのは三河湾が豊漁の時に浜の魚屋が振り売りにくる魚、岡崎ステーションに出来た牛肉屋の肉類など動物性蛋白である。豆腐とうどんはむらの店で買えた。卵はどこの家にもニワトリを飼って自給であった。野菜は完全に自給である。甘藷、馬鈴薯、南瓜、西瓜等も自給用に作り続けていた。母が西瓜つくりの名人だと村人から言われていたことも前述したが、畑を比較的多く持っていたからであっただろう。
燃料は炊事用と風呂用は桑の根刈り枝と稲藁とで十分であるが木炭の購入は春蚕の暖房用があるので、比較的多く買っていた。購入物資で一番重要なものは稲と桑のための肥料で、大豆粕の全盛時代、豆粕や魚肥も使っていた。過燐酸石灰はあったが硫安は大戦後に多くなった。野菜には人糞尿を腐らせてやるのだが、それが寄生虫の媒介をした。近藤も幼い頃蟯虫と真田虫の寄生をうけていた記憶があるという。
近藤は小学校の同級生で進学組より二年遅れて県立第二中学に入った。
「道草を食って損をしたとも思った。しかし今日考えてみて損ではなく得をしたとも思う。体の頑健でなかった私にとって、二ヵ年の道草は有益であった。自宅から一時間足らずの歩いて通学する規則的生活が健康によかったと思う。五ヵ年間無欠席、ただ一回の遅刻は剣道の寒稽古が朝六時に始まるのが二週間続いたときである。学科についてはどの学科も無理なく消化したのは二年の道草が役だった」
当時の二中は西三河の俊秀を集めたもので、寄宿舎があり、汽車通学をする者も少なくなかった。後に小説『人生劇場』で有名になった尾崎士郎は近藤の二年先輩であった。当時岡崎駅と西尾、横須賀を結ぶ軽便鉄道があって、駅から道連れになり、彼は歩きながら誰にでも話しかけ、青春をまき散らしていた。学内の弁論大会でも雄弁をふるい異色の存在であった。こんなエピソードがあった。
彼の悩みは幼いころからのドモリであった。その矯正のために毎夜人々がねしずまった後、河原にでて大声で弁論の練習をした。当時の士郎の俳句が残っている。
「秋の夜や三日月様に詩を吟ず
犬の吠ゆる声聞きて冬の夜は明けぬ
水を汲む人あり寒き霜の夜に 」
彼は卒業送別会の席上「雄弁は練習だ。元来ドモリ勝の僕が講演できるようになったのは努力の結果である、練習せられよ」と述べた(「岡崎高校九十年史」)。
人生劇場の主人公瓢吉の中学時代は当時の愛知二中の様子とあまりかわらない。同盟休校は二中の恒例であったし、文学書を讀み、政治思想雑誌を購読する青年像も同じという。当時のインテリ青年の人間像は、明治末期から一種の流行となる煩悶青年や政治青年の典型と見られていた。近藤康男もそうした雰囲気の中にあり、やがて社会問題があらわになるとき、社会矛盾に立ち向かう志をもつことになる。
「愛知二中の教育内容は軍隊教育と上級校への受験準備であったと言っても差し支えあるまい。毎週三回ある「体操」の時間は、厳格な竹内先生の教練であった。生徒のしつけを家庭に代わってしていたとも言える。洋服、ゲートル、靴の清掃が必要で、夏の白服の洗濯には母を悩ましたものであった。受験勉強の強化は四年生から始まり英語も、国文も入試の出題を勉強しながら始まった記憶がある。数学は多くの生徒が苦手とするが私は代数も幾何も無理なく消化した。数学の先生が代数の好きな者と幾何の好きな者と性格が違うようだと言うのを軽く聞き流していたと思う。それも二年の道草が役立ったと思う。首席を続けて大正七年三月卒業した。
この首席卒業には当時一つの特典が与えられていた。当時の高校・専門学校の入学競争は厳しいものであったが、第八高等学校は各中学からの首席卒業生一人を限って無試験入学を許していた。わが愛知二中ではその頃毎年の首席の卒業生は八高、二番は海軍兵学校というのがパターンのようになっていた。私はその八高無試験入学のパスを獲得したのであった。私は将来は建築科をという志望であったから八高二部へ入学することに決めていた。入試のための試験勉強が無用となったので、四月から多忙になる春蚕の手伝いに没頭することができた。」
ところが、八高無試験入学の特典を近藤は享受する事ができなかった。養蚕手伝いに没頭し、入学願書の提出には期限があることを考えなかったからである。失敗である。この失敗でまた一年遅れることになった。
「この失敗を中学の英語の青木先生に手紙で報告したら、先生から渡し船に乗り遅れたお坊さんが遅れたために船の遭難から免れて命を失わずに済んだという話を書いて「悔やむ事はないぞ」と教えられたのは有り難く今も記憶に残っている。」
学制がこの年大きく変わり、八高の無試験入学もなくなり、中学四年修了からの入学ができるようになった。競争が二倍になったのである。近藤は試験勉強をして八高入試に合格した。かねて建築をやりたいと思っていたので、理科甲へ入学したのである。
第八高等学校は最後のナンバースクールとして名古屋市郊外に出来たもので、校舎は大根畑の中に建っていた。地元出身が三分の一、東京から三分の一、あとは全国から集まっていた。八高には旧制高校の自由な空気があった。近藤が最初に気づいたことに、中学でしつけをしてくれた先生はなく、ここでは各地から集まった友達の寮の中での自由な話し合い自己主張が有るということであった。
しかし旧制高校の自由とは何であったか。旧制高校は大学予備門と言われていたが、大学の収容力は高校の卒業生を全体としては完全に吸収できるものであったから、第一志望の学部、学科に落ちてもどこかへは入れる状態であった。
「何れにしても知識青年として社会へ出ることが出来ると言う事が、あの自由な空気の基礎ではなかったかと思う。教授は老先生もあるが新進気鋭の先生もあり、いずれも何等かの研究者である。それがあの当時まだ保たれていた自由講義をする。旧制高校の自由の源はそこにもあったと思う。
あれは椎名弁匡先生の力学の講義でベクトルの講義を聞いたとき近藤にはよく消化できなかったが、学問研究の入口に立った想いをした。」
さてこのようにして三年は早くすぎた。一九二一(大正一〇)年大学の学部・学科を決める時がきた。時あたかも大戦景気で昇りつめた景気が不況に急転した。好況の中ですすめられたデモクラシーを求める諸運動はいづれも困難に遭遇し、ことに小作問題など農村問題は深刻であった。社会事情は大きく変わりつつあった。そのような変化に無頓着にわが道を行く人は多い。近藤はそれに動かされた。寮で「われら何をなすべきか」の自由な討議が行われた時、新聞などで伝えられる農村問題(写真・新聞スクラップ参照)を頭に浮かべざるをえなかった。
大正三年に始まり、多くの国々をまきこんで、大正八年まで続いた第一次世界大戦は国々の在り方を揺るがせた。戦争による重い負担が人民大衆の解放を求める意識を目覚めさせ、デモクラシーの思想が大きなうねりとなって世界に広がった。大正六年ソ連の成立はことに高い波頭であって、デモクラシーのうねりを広く複雑に強いものとした。
日露戦争後の不況が続いていたわが国の経済は第一次世界大戦によって好況に転じ、海運・鉱山など多くの成金を生んだ反面米などの物価騰貴は労働大衆の生活を強く圧迫する矛盾をはらみ、米騒動として爆発した。全国に広がったその巨大なエネルギーを担う「大衆」というものの実在を多くの人々が初めて意識した。それは普通選挙を求めた長期に亘った忍耐強い運動と同じく、デモクラシー思想の浸透という同根の基礎をもつものであった。
ストライキなど労働争議は関西にまず起こった。官憲の弾圧は造船所の大ストライキに対しては軍隊を出動させるに至ったが労働者は闘い続けた。大正八年大戦が終わり、不況に向かった時期ともなると首切り反対だけでなく団体交渉権の確立、工場管理委員会の設置を求める闘いをつづけた根底はやはりデモクラシー思想であったと言わなくてはならない。
農村もまたこれらの情勢と無関係ではありえない。しかし小作争議の報道が多くなったのは大企業の労働者のストライキよりは遅れた。地主小作関係は現物小作料とともに主従の色彩をもつ封建遺制とも呼ばれたものであったからである。しかし、東大の新人会、早稲田の建設者同盟などの進歩的学生、デモクラシー思想の旗手たちが農民運動に参加して運動は組織化され、大正十二年日本農民組合が結成されるに及んで農民運動も活発化した。これまた関西からである。岡山、大阪、岐阜など大地主に対する小作料引き下げは効果を納め、「今年三割、来年五割、末は小作の作りどり」などと気勢をあげる時期もあった。
しかし、大戦が終わり不況期にさしかかると、攻守その位置を変え新潟の木崎争議など小作争議は地主の土地取り上げに抵抗して耕作権の存在を主張することに重点は移った。
治安維持の名の下に官憲の小作争議弾圧は次第に強化され、最も遅れて小作争議となった秋田の前田村争議では農民が村に篭城して数日間警察隊と対戦したと報道された。農村問題は社会問題であった。ことに大正八年終戦の時を絶頂として、昭和大恐慌へ向かって下降に下降をかさねる時期、大正十二年の関東大震災も加わって深刻な不況の中で農村問題は解決を急がねばならない社会問題であった。
こうした状況は近藤家にとっても無関係ではありえなかった。小地主であるが小作人との間の小作料はいつも問題になっていることは子供時代の康男にもわかっていた。台風と水害のあった年の暮、四、五人の小作人が父と小作料引き下げの談判をしていた。争議とまではならなくても緊迫した空気を感じていた。中学生だった康男は、あんなに稲が倒れて小作人は気の毒だというだけの気持ちで、父に早く負けてやったらと言うと、父はむきになって「それでは地主が食えなくなる」と言った。小作人にとっても、小地主にとっても死活の問題であった。
そうした記憶と新聞などを通じて見る社会問題となっている小作争議のもっている強い刺激とが、これから進むべき途を考える近藤のあたまに往来した。それは当時の青年達が程度の差はあれ抱いた問題であったと思う。「われら何を為すべきか」が仲間の議論の重要課題であった。
このようにして、ことに斉藤昇君という親友と話し合い二人揃って農業経済学科を志望することに決めたのであった。
建築志望者が農村問題に転向するようになったといっても、ひとつには近藤の建築志望がさまで固いものでなかったこともある。いろいろ検討の末の結論でもなく、立派な建築物をみてあれを造りたいという芸術的精神の高揚からでもない。僅かに記憶にあるのは家へ出入りしでいた大工の頭領の頭領ぶりに魅せられたことと、近藤の母の従兄弟が東大建築科へ進んだのをみて、その跡を追いたい、というような淡い初恋のようなものであった。だから、大正時代の社会状況、ことに農村の小作問題などの社会問題、これを貫くデモクラシー思想の流れ、そういうものに動かされて近藤は建築志望は自発的に捨てて農村問題へ立ち向かう途を選んだのである。
それと学制改正で、方向転換をしやすくなったと言うことも近藤の意志決定に影響していると思う。この時行われた大学・高校の学制改革で、高校が大学の予備門という点を緩和され、志望学科を選ぶ範囲が広げられ、ことに東大農学部では農業経済学科が新しく設けられ、理科・文科を問わず志望できるようになった。それを択んだのである。
農村に生まれ育った近藤が窮乏に向かいつつある農村を見捨てることができず、農村問題を一生の任務とする農学部農業経済科を選んだのは自然というべきである。そうした者は近藤だけではなく、その年の東大農学部農業経済科を志望したのは四〇名で、農学部の方で予定した三〇名を越したのであった。
今日からこれを考えてみると、あの高校入学願書提出を忘れることなく、八高無試験入学をしていたならば恐らく最初の考えのまま建築をやったであろう。それがあの失敗をしたことで、一年遅れ、そのため学制改革となり、大学高校間の縦割がゆるみ、農業経済学科という世相を反映した学科が設けられ、それを択ぶ事ができたのである。人の一生は青木先生が告げられた通り、禍福は糾へる縄のようなものである。近藤の場合、青木先生の話のお坊さんのように生命に関わるものではなかったが、一生の歩む途の方向を決めたのであった。
八高は、濃尾平野の農業・商業地帯が豊になり、とくに大正初期大学進学希望者が多くなっていた。八高出身者には農学・経済学者が多く、作物学の佐々木喬、農政学の東浦庄治、経済学の山田盛太郎、渡辺信一、農業経済学の東畑精一などがいる。その中の渡辺信一は八高時代を次のように語っている。
「近藤君と初めて相識ったのは八高在学時代で、たぶん二年のときであった。彼は理科、私は文科にいたが、交友会雑誌の編集委員になったため顔が合ったわけである。半世紀以上もまえのことで細かい点は忘れてしまったが、テキパキと判断のできる人という印象だけがおぼろげながら記憶に残っている。農山漁村文化協会のリーダーになったと言うことを聞いたとき、彼にはやはりそういう素質があったのだなとその頃の彼を想い出した」(「昭和前期農政経済名著集第二巻月報」から)
近藤は雑誌の編集委員のほか弁論部にも加わったという。覚えていることは模擬国会をやって、近藤は内閣書記官長で「ただ今詔勅がでて、国会が解散となりました」という役だった。東京出身者が多いので木曽の営林署や木曽川下りなど案内して面白かったという。次の思い出は斎藤昇の追悼録に近藤が書いたものである。
「斎藤君とは、八高在学中、城南寮で二年間、同じ釜の飯を食った以来の仲である。城南寮は名古屋の下出さんが八高生のために建てた寮で、楽しい共同生活であった。コンパのあとの演芸では斎藤君の十八番は「貫一お宮」のひとり芝居だった。クラスは違ったが同じ理科甲で、試験の季節には相互扶助であった。
彼は剣道が好きで、私に剣道部へ入るよう勧誘した。私が中学で剣道の選手をしていたことまで調べていた。私は中学で運動部というものの在り方がどこか気にそわなかったので、ついに一度も竹刀を手にしなかった。
八高卒業後、彼も私もそろって東大農学部へ入った。理科甲から農学部、それも農業経済は、常識的には脱線であるが、これは二人で研究した末の結論であった。寮の近くにあった用水池の堤防の上で遅くまでこの問題を話した記憶がある。
結論は同じだが主旨は多少ちがっていた。彼はアマゾンあたりへ雄飛したいという夢を抱いていた。私は農村問題を考えるためには社会科学をやりたい。当時理科系卒業生に門戸を開いている社会科学系の学科は東大では農学部農業経済以外はなかった。卒業後の職業など何も考えずに人生の重大事件を決定した点は同じだが、アマゾンの夢があっただけ彼の考え方の方がリアルであった。
駒場の三年間は兄弟の生活であった。教室でも農場でも、斎藤の現れるところ近藤がいた。農学部裏門前の伊東材木店の離れに一緒に下宿し、寄宿舎の食堂へつれだっていった。伊豆大島に椿の咲く頃、二人で旅行した時の写真が私のアルバムにある。あんなのをみると懐かしい想い出が限りなく続く。
斎藤兄は駒場で南瞑会など提唱して南方雄飛の夢を持ち続けたが、卒業前には覚めて、彼は行政官になる目標をもって法学部へ転進した。職業選択に主体性をもてなかった私に比べて、彼は遥かにリアルな考え方の人間であったと思う。」(『斎藤昇先生追悼録』から)
近藤にとって斎藤昇は八高の二年間と東大三年間寝食を共にした親友であった。東大農業経済学科に入っても助けあった。一九二五(大正十四)年近藤の著作第一号となった『ロチデール消費組合の先駆者』を翻訳したとき、その校閲を助けたのは斎藤と山田勝次郎であった。斎藤は農業経済学科を卒業するとき那須皓教授に教授候補として研究室に残らないかと口説かれたが「学者としてではなく行政官として一生をおくるから」と法学部に進んだ。
斎藤は東大法学部二年のとき高等文官行政科に合格、内務属となった。以来内務省畑を歩き、戦後は山梨県知事、内務次官、警視総監、警察庁長官を経て参議院議員。池田内閣の運輸大臣、佐藤内閣の厚生大臣を歴任、一九七二(昭和四七)年没、六十九歳であった。現参議院議長斎藤十朗は昇の次男。
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