2000/01/04 原田 勉
3章、家族と環境
3-1<私は小型のカンガルー>
近藤康男は『一農政学徒の回想』のなかで、しばしば自分を「カンガルー」にたとえて語っている。たとえば、そのまえがきで、次のように述べている。
「私の著作集について西山武一さんからは”日本の土と農民に対する深い愛情が貫いている”と言われ、石渡貞雄さんからは戦時中に書かれたものは不器用でさわやかだと評価されている。(中略)さわやかさは脂肪分不足、不器用、貧弱ということのさわやかな表現にほかならない。土の匂いを漂わすとか、土の化身と評価されるのは,すべてわたしが幼少のころから、恵まれた知的環境のなかで効率的に栄養を摂取した肉食動物ではなく、荒野の草を捜し求めてやっと成長した草食動物だったと思う。少年時代の環境はオーストラリアのカンガルーのおかれたものと同じであった」
<故郷の現在>
近藤康男が、その少年時代を過ごした故郷、岡崎市井内町はどんな所か。
一九九七年五月、筆者はその環境と風土を訪ねた。
かねて近藤から何度も聞いていた大正時代の農村旧六ツ美村の面影はほとんど残っていなかった。岡崎市全体が大都市近郊の住宅地で自動車関連の工場があり、従業員の住宅やマンションが見られた。井内町も昔は五〇戸くらいの農村であったが現在はほとんどの畑地が住宅になり戸数も三倍くらいになっている。近藤家の屋敷跡は半分が道路になり、残りに二戸の住宅が建っていた。まわりの水田には植えられたばかりの稲がゆれていた。
想えば約九〇年の歳月が過ぎて、二度にわたる世界大戦があり、世の中もすっかり変わった。とくにこの地方は一九四四(昭和一九)年と四五年に東海地方大地震と三河地震によりほとんどの家屋が倒壊した。現在新築の家が多いのは戦後二度目の建て替えのためという。
井内の三門といわれた近藤家など当時の小地主層は没落し、当時の小作地が今は宅地になっている。近藤の思い出にあった八幡宮も建て替えられて、すっかり新しい社になっていた。案内してくれた古老も七三歳という。当時の資料や写真を提供してもらい昔話を聞いた。そこで近藤康男も知らない発見があった。
「おたかさんが、東京の近藤家に移るとき寄進した献灯台がある」という。
八幡宮の鳥居の脇に一対の献灯台があり「昭和三十年 近藤たか」の文字が彫られてあった。あとは共同墓地に残る祖父近藤弥兵夫妻の墓標だけが近藤康男の故郷の証明であった。
ここで取材した資料と今までの聞き書きによって、近藤の人間形成にどのような影響をおよぼしたか、当時の岡崎の家族と環境をまとめてみよう。
「写真3-1、(岡崎市井内町の近況)
[1]占部川 [2]水田 [3]道路と集落;近藤の思い出にある<水と闘うむら>の中で井内の東側の占部用水が大雨のとき決壊し洪水の被害をうけたとあった。その用水も今は一級河川に改良されて洪水の被害はなくなった。そのすぐそばに僅かに残った水田が元川田といわれた湿地である。昔の面影といえばこのくらいしか残っていない。近藤家の旧屋敷跡地の半分一六〇坪は県の新道になっている。
3-2 明治の家族・岡崎藩のなごり
近藤が生まれた岡崎は徳川家発祥地である。、およそ四六〇年前、家康はここで生まれた。近藤が生まれ育った旧六ツ美村には本多家・土井家・大久保家発祥地として今でも碑が残っている。十九世紀の藩主は本多氏であったが、明治になってもその農民支配のなごりがあった。近藤の母方の婚姻関係にそれを見ることができる。
父安治郎は明治二年生まれで、母たかと結婚したのは明治二十八年。そのとき母たかは十歳下の十六歳(明治十二年生まれ)であった。
母の実家の杉浦は代々安藤村の庄屋であったが、その婚姻関係をみると、当時はまだ家柄が重きをなしていた。母の妹は旧岡崎藩の大庄屋の一つ、洞の永井家へ嫁しているし、叔父はもう一つの大庄屋仲園の岩槻家(その息子が農学者岩槻信次・近藤康男の従兄弟)を継いでいる。中之郷の大庄屋長島家とも親戚関係である。
岡崎藩の置いた六戸の大庄屋のうち、三戸と比較的近い血縁で結ばれているのは、明治三十年ころまで同じ家格でしか、結婚を考えなかったからであろう。
『六ツ美風土記』によれば、岡崎藩では六万石を六つの地域に分け、一万石単位に大庄屋を中心に手永(てなが・大庄屋の管轄区域)をつくったという。その大庄屋がさきにあげた三戸の外に川西は下佐々木の太田家、山方は斎藤家、北山中は薮田の神尾家といった。
しかし、明治中期にもなると藩政のおもかげは薄くなり、家格に変わる新しい階級が生まれてきた。
近藤の祖父は庄屋でもなく、大した地主でもない。いわば家の格が違うのに庄屋であった杉浦家から嫁を迎えたのはどういう事情であろうか。
「明治になった農村では、それまで庄屋をつとめていた中小の地主は小作料だけをめあてに寄食できない場合、小学校教師になる例が多く格好の活路であった。小学校の教師は村の特権階級とみられていた時代である。
祖父弥兵は田畑一町歩(一ヘクタール)を自作し、水田二町歩を小作七、八戸に貸していた自作地主であった。その祖父が長男安治郎を師範学校にあげた。康男の父安治郎が師範学校を出て小学校教師になったことは、当時そういう生き方をとっていた庄屋層の仲間になったことを意味したのであろう。
つまり土地=農業生産から遊離して、高尚な、不生産的職業についた階級ということである」
<井内の三門>
祖父母の弥兵夫婦は共に働きものであった。近藤がものごころついたころ祖父は中気に悩まされていたが、若いときは、その父(近藤の曾祖父・岩蔵)とともに庄屋につぐ身代を築き上げたひとである。
その象徴が「井内の三門」といわれる長屋門付きの瓦葺き母屋である。
「絵図3-2-1」(近藤家の屋敷絵と配置図)
大字井内という五〇戸ばかりの「むら」に長屋門を構えた農家が三軒並んでいた。南に向かって左から近藤、杉山、杉浦の三家で、「井内の三門」と呼ばれていた。いずれも旧藩時代に農業生産を営む伝統的な農家の構えで、旧藩時代に藩から指導されたものか、大工も同じであったようであるが、どの家も単純な構造で、間取りも同じ様式のものであった。茅葺きの家はなく瓦葺きであったのは、近くに茅場がなく、三州瓦の産地に近かったので、どの農家でも瓦葺きが普通であった。
近藤家の場合は、長屋門と母屋は天保年間(一八四〇年ころ)に建てられたもので長屋門の右袖は農具置き場兼灰小屋、左袖は穀物倉庫と物置である。屋敷の広さは三三〇坪(約千百平方米)、母屋に向かって左側に明治中期に建てた客用の離れ一棟があり、右側に別棟の作男部屋と作業場がある。母屋の前は広く農産物や蚕具などの干し場となっている。この庭を「おもて」と呼んでいた。母屋に入った庭と呼ぶ土間の作業場があり、そこと区別するためである。
母屋の出入りは一間の大戸で、玄関はない。中はたたきのようになった一〇坪位の庭がある。左の上がりかまちにある大黒柱とそれに続くヒノキの板戸は祖母の手で瑪瑙色に磨き込まれていた。居間と座敷は田の字型に六部屋ある。障子やふすまで仕切られているだけだから、明け放せば一つの大広間になる造りで、正面一番奥が仏間である。法事などに会食するのにも便利だが、夏はここの畳を上げて棚を組立て、養蚕場となる。家族はみな客用別棟の座敷に追いやられる。
居間の右奥は台所で、かまどがあり、井戸がある。庭の右手にみそ部屋、手前はむかし馬小屋だったが後に物置になった。入り口に近いところに風呂と小便溜がある。これらすべて地方の農家に共通なつくりである。
庭の隅には縄ない用のわらを打つための石が埋めてある。これもどこの農家にもあったものだ。冬の間の藁仕事は昭和初年まで全国どこの農家でも共通のものであった。縄、俵、かますなど自給用の外、販売している農家もあった。
庭の天井裏は藁などの置き場であった。ふとん入れの長持ちや普段使わない諸道具の置き場は居間の天井裏である。
近藤が中学生のころまで、自給用の味噌をつくり、味噌玉が庭の天井から垂れていた。大黒柱と格子戸の瑪瑙色とともに祖母の自慢であった。
昭和七年倒産のため離れだけ残して後の三百坪は処分した。康男は現在の住所・高井戸にある三百坪余りの宅地と菜園は無くなった実家の再建であるという。
<近藤家の先祖>
近藤家は徳川家臣団の末裔ではない。過去帳によると、遠い先祖は元禄のころ他所からこの矢作(やはぎ)川左岸の沖積地、井内というむらに移って来たらしいという。代々農業で苗字が近藤になったのは、明治の戸籍法制定からである。 明治から大正時代にかけてこの集落で純粋の農家は少なくなり、次第に農業から離れる傾向が進んでいた。
農家はほとんどが浄土真宗の門徒であったが、徳川家臣団を供給した地域であるからそれと関係があるのではないかと思われる家が近くのむらにみられる。大久保、土井、本多などの姓を名乗っている家である。近藤家の前隣は大久保彦左衛門の家系に連なる家柄で大久保治郎作さんがその一人である。貧農であって、老父は綿打ちの賃稼ぎをしており、当主の治郎作さんも若い頃は近藤家の作男のような仕事をしていた。子どもであった近藤をはげます言葉をよくかけてくれた。この家は熱心な天理教信者で、後には天理教の教師になり、講師になって講話に出かけていた人である。貧農というのは、今の人にはわかりにくいだろうが、自分の田畑だけでは生計が成り立たず、他の収入に頼らざるを得ない兼業農家のことをいう。
近藤の家も父が教師という兼業農家である。田畑三町歩ばかりの自作地主で、作男がいて家族労働力も加わって自給用の作物を作っていたが、完全な地主手作りではなく脱農過程の兼業農家というべきであった。
「写真3-2-2」(屋敷跡と八幡宮)
[1] 屋敷跡;三三〇坪の屋敷は昭和七年に処分された。門長屋も母屋も解体されて人手にわたった。今は一六〇坪に二戸の新住宅があった。
[2] 井内町のなかに残っている八幡宮は集落の守神である。二度の震災で壊滅した跡にむらの人たちの寄進で再建された。その献灯台に昭和三十年十月に寄付した「近藤たか」の名があった。近藤康男の母である。土地の古 老はたかが東京の康男のもとに去るときに建てたという。
この外に共同墓地に康男の祖父母の墓が残っていた。
3-3、水と闘う「むら」
稲の豊凶や米価の上がり下がりが、家族や村の人の話題となったはずであるが近藤の少年時代の記憶にない。記憶にあるのは二百十日前後に訪れる台風のことである。大雨は毎年必ず何回かあった。その量によって水害となる。
旧六ツ美村井内は矢作川の水を左岸の天白に引きこんだ占部用水によって潅漑をしている。その用水の土手が決壊して、むらの東側の川田がいつも洪水の害を受ける。夜中に火の見の半鐘が鳴るとむらの男子総出で堤防を守りに出る。
それは水のあふれるのを防ぐためであるが、川の向こう側のむらの警備隊から堤防を守る意味もおおきかった。対岸が決壊すれば、こちら側は大丈夫だし、下流で切れれば上流は大丈夫だから警戒を怠っていると対岸や隣部落からやられる危険があるからである。封建時代は外部の敵から守るための村落共同体が水と闘うために、隣部落と対抗するための団結となった感がした。
「風雨の音をわけて聞こえる、あの半鐘の音は恐ろしい。子供たちは何の手伝いようもないが、大人たちの緊張した声や怒号から不安や恐怖が伝わってくる。大人たちの緊張は、この風雨で作物が傷む、堤防が決壊したら、田圃一面の泥をかぶる、決壊しなくても雨のあと排水が悪く、稲を腐らせてしまう、などなどを心配する緊張である」
井内の東側は川田という文字通り掛け流しの水田で二毛作ができない田圃であった。持ち家の境界の畦はなく、杭だけである。むらの各戸が一筆づつもっていて、水害など非常時の動員の基礎になっている。何分にも生産が不安定なので、近藤家ではここには糯(もち)稲を作付けし、川田からの収穫だけをその年の餅に使うことにしていた。
むらの西側は東側とちがい水掛かりもよく立派な二毛作田であるが、以前は湿田であったらしい。これは近藤が中学生の頃の記憶であるが、そこの田へ水をひく番をしていると、同じく水廻りにきた一人の村人が、
「この辺の田が二毛作できるようになったのは、貴方の安藤のおじいさんのお蔭です」
と話した。家へ帰って聞くと、それは母方の祖父杉浦定吉のことであった。
「写真3-3-1」(二人の祖父)
[1] 近藤弥兵;先祖は矢作川の対岸から井内に移ってきたというが、康男の曾祖父・岩蔵とともに弥兵がよく働き庄屋につぐ身代を築いた。明治初期には三町歩の自作地主になった。弥兵は若いころから積極的に養蚕などの新しいものを取り入れ、工夫した。明治になって水田二町歩を小作に出し、長男安治郎を師範学校に進ませた。安治郎が小学校の教師になったことから大庄屋の娘たかを嫁に迎えることができた。村の中では熱燗の弥兵といわれ酒が好きだった。 その孫が康男である。康男はチューネンを研究していて祖父を思いだしたという。晩年の祖父が酒に乗じての自慢話をする顔が知的で精悍でチューネンと似ていたからである。 弘化四年生まれ、大正五年六十九歳で死亡。
[2] 杉浦定吉;大字安藤の旧庄屋で母方の祖父。排水が悪く湿害になやまされていたい安藤川周辺のむらを水利組合を組織し、明治三十四年改修工事を完成させた。その功績をたたえ安藤橋のそばに明治四十四年顕彰碑が建てられた。
嘉永七年(一八五四年〜一九一〇年)明治四十三年没五十六歳
[3] 安藤橋の袂にある顕彰碑の側に立つのは孫の杉浦定夫と曾孫義之、近藤康男の従兄弟とその子にあたる。康男はこの祖父を尊敬し、自分が農業問題に一生を費やすことになったのに影響しているという。
<杉浦定吉の碑>
杉浦定吉は六ツ美村大字安藤の旧庄屋で、明治になり惣代と名称はかわったが「むらのまとめ役」は同じであった。安藤は六ツ美村でも土地が低く水田は湿害になやなされていたこともあって、水利組合を組織し、骨を折って明治三十四年安藤川の改修を完成させた。その安藤川悪水のことで、矢作川左岸の湿田の最下流に位置する大字安藤が発起し、いろいろな反対があったのを押して実現した排水路であるという。
「祖父は、その頃利害の反する上流の反対派の人たちに追い回されて、その追跡を逃れて近藤家の屋根裏の長持ちの中に潜んでいた」
という話であった。川幅を広げるため流域の土地が削られる人や負担金への反対もあった。しかし、定吉は村人を説得し県に掛け合ってようやく明治三十四年に工事は完成した。このため今まで葦やマコモの生える沼地や排水の悪い水田が改良され、毎年の純益一万円にのぼるという豊かな土地になった。その功績を讃え定吉の没後明治四十四年安藤橋のたもとに顕彰碑が建てられた。
筆者は一九九七年に現地を訪れ、定吉の孫である杉浦定夫(近藤康男の従兄弟)と曾孫の義之の案内でこの写真を撮り、今でも小学校の社会科副読本で「米作りに努力したころ」の功績を教え継がれていることを聞いた。
当時を偲んで近藤は、次のように言っている。
「今にして思えば、私はこの祖父を尊敬し誇りをも感じていたもので、私が農村問題に一生を費やすことになるのに遠く影響している。この祖父の功績を刻んで安藤川の堤防に建てられた石碑の拓本を大切に保存している」
<三河の農民気質>
「父は私が小学三年生くらいまで小学校教師であったから農業にはあまり手を出さなかった。母と祖母は働き者で、作男に助けられて、水田三反(三〇アール)と桑畑が五、六反、ほかに自給用の野菜やサツマイモ、アワなどをつくる畑一、二反を切り回していた」
近藤は、長男として幼年のころから農業労働の体験をした。
「小学校に入った明治三十八年ころから苗代のめいちゅうの卵とり、田植えの手伝い、養蚕の手伝い、秋の収穫作業など、幼年労働で間に合うことにはほとんど動員された。とくに高学年になってから養蚕はいちばん主な仕事で、睡眠不足で体をこわすくらいに働いた」
養蚕は父が教師を退職して熱心に始め、むら一番の養蚕家になった。これについては項を改めて語って貰おう。
もともと三河は、川は二つあるが大半が山地で、昔はヒエやアワなどの雑穀を常食としてきた。ところが、となりの尾張は一望の平野であり、昔から水利に恵まれ豊かな米作地帯であった。この違いが両国の人々の気質のちがいをもたらした。
三河衆の気質は、きわめて農民型で、律儀で義理にあつく篤実、労をおしまずよく働く。この点は近藤康男にもよく見られる。「人の一生は重荷を負いて遠き途を行くが如し、急ぐべからず」という家康の教訓を今日でも自らの教訓として語っている。着実で律儀であるが、逆にいえば投機がきらいで開放的でなく、冒険心にとぼしい。家康のような三河者と、その反対の性格をもつ秀吉のやうな尾張者と較べると良くわかる。
その例が近藤家でもみられる。
「3-3-2」(徳川家康の家訓)
「人の一生は重荷を負って遠き道を行くが如し、いそぐべからず。不自由を常と思えば不足なし。心にのぞみおこらば困窮したる時を思いだすべし。堪忍は無事長久の基。怒は敵と思え。勝つ事ばかり知って負くる事を知らざれば、害、その身に至る。己を責めて人を責むるな。及ばざるは過ぎたるより勝れり。
慶長八年正月十五日 家康 (上野東照宮 所蔵)」
<祖母のきびもち>
「祖母くらは働き者で、祖父が五十歳ころ中気で倒れてからは、嫁のたかと作男を相手に、農業と家事を切り回して村人の賞賛のまとであった。朝食前の畑仕事から働き着を露にぬらして帰ってくる姿をよくみていた。自分の勉強時間が朝型であるのは祖母ゆずりらしい」
祖母は綿、アワ、キビ、大豆など自給作物を頑固に作り続けた。そのエピソードが近藤のこころに残っていた。
「雑煮のもちを家族につぎわけるのに、おわんの底に米のもち、その上にアワやキビのもちをのせて、まず雑穀を食べねば米のもちを食べることが出来ないようにした。祖母は三河以来の伝統的雑穀の奨励と米の節約を実践したのである」
近藤は幼いころから祖母のお寺詣りによく連れられていった。
「三河は古くから一向宗の盛んなところで近藤家は本願寺の門徒(浄土真宗)であった。小学生のころ毎月針崎の勝鬘寺(しょうまんじ)に仏教講話を聞きについていった。説教は衆生は悪人であり、無力である、そのままでいい、ただ阿弥陀仏を信じ念仏を唱えさえすれば済度される、という他力本願である。王法をもって本とせよという、権力は尊重せねばならないともいう無抵抗主義である」
「私の考え方が万事平和主義で闘争的でないのは、遠く十歳ぐらいの頃に、祖母に連れられて聴くともなく聞いた説教が、肌にしみ沈澱しているからかもしれない」
この寺は今でも昔のままで二度の大地震でも倒壊しなかった。本堂の脇には永録六年三河一向一揆戦陣跡の碑が残っている。若き日の家康や大久保一族が苦戦した跡である。本願寺門徒もこのころは封建体制に抵抗して勇敢に戦った。近藤康男が平和主義であるのは、仏教講和の影響もあるだろうが永年にわたる三河の風土の中で培われた農民的気質のせいではないだろうか。何世紀も経った今でも岡崎の人は穏健で人の良い感じを受けた。
もう一人影響を受けたのは、母方の祖母である。
杉浦の祖母にとっては初孫であったので家をあげて歓迎された。代々庄屋を勤めた家だけに、主婦は村人との間の潤滑油にならざるを得ない。母方の祖母が如才なさを身につけていたのは、長年そういう立場にいて練り上げた結果であろう。「こどもごころにも生家とはどこか違う雰囲気が感じられた。祖母は歓迎してくれたが、無原則的にわがままをさせたのではない。むしろ子供であるが一個の人格として扱い、いいことも悪いことも、機を失せずに評価し、子供に自尊心をもたせ、わがままを封じ込めるような扱いだった」
母方の祖父(定吉)が公共事業に没頭し、村の誰もが尊敬していたのはこどもごころにも誇りであった。この家の空気は近藤が前にも言った「農村問題を一生の仕事」にすることに強く影響しているという。
「この家の物置になっていた二階で私は『老子』一册と岡崎藩発行の藩札一枚を発見して頂戴した。母の話によると祖父は学問を重んじた人らしい。母が生まれたのは明治十二年で、その頃、女は安藤あたりではほとんど就学しなかったそうであるが、母はいやがるのをむりに学校へやられたという。見つけた『老子』の木版の古書は現在も大切に保存している」
3-4、父・・・実行で示した教師
この写真は大正四年発行の『碧海知名人録』から採ったものである。故郷訪問のとき写真を探している話をしたら井内町の大竹小太郎氏が方々さがして見つけてくれたものである。その人物紹介は次のとおり。
「君は六ツ美村の人明治二年の出生なり家世々農桑を業とし資裕かなり、幼より頴悟小学時代より秀才を以て目せらる、曾て小学教員として教鞭を執りしも家業の支ふる所となり辞して家にありしが、衆望の帰する所村会議員に推され亜いて六ツ美収入役に挙げらる現に其職に従ひ孜々として倦まず」
近藤康男の語る「父と私」には次のように述べている。
「父安治郎は口数の少ないひとで、酒は強かったが乱れることはなかった。家父長的ワンマンで何事も家族と相談したり意見をきくことはなかった。無駄が嫌い。いやなことはしない。むらの寄り合いや行事の当番に出るのが嫌いだから母や私が代わりに出ることが多かった。」
まわりの農家の下卑た言葉や所作が嫌いで、こどもはそれに染まらないようにしつけられた。音楽や碁、将棋も無駄な浪費で、堕落の第一歩だという。近藤が今でも碁将棋ができないのは、ここに遡るようだ。
勤勉と節約だけが家族の守るべき徳目であった。
父は明治二十年頃、小学校教員になったが、蔵書は三好学、松村任三、石川千代松などの動物・植物の本ばかりであった。顕微鏡や植物採集の用具もあり、人間相手の教育より植物に興味があったようである。富士山へ植物採集に出かけた話は何度も聞かされた。しかし、植物に関する話を父から聞いた記憶がない。教師はしていたが教育者ではなかったのだろう。その点は私がそのまま継承しているらしい。
近藤が小学校四年生、一九〇八(明治四十一)年頃に父は教員をやめて養蚕に専念することになった。直接の理由は祖父が中気になって労働力を失ったからであるが、本当のことは転任もある宮仕えが嫌になったのでは、と推察される。それに加えて養蚕の経済的魅力もあったに違いない。
一九八七(明治二十)年ころ、父の教員としての初任給は月給七円であったが、明治の末頃たとえ校長になっても月給三〇円であった。当時繭の値段は一貫目三、四円で年三回の養蚕で一〇〇貫近くは取っていたから教員よりは年収が多かったのである。
父にとっては養蚕業は新分野で知的労働の要素が多かった。蚕種製造業者がつくった飼養標準表を頼りに、時計と寒暖計をにらみながら飼養管理をする緻密な作業であった。それを確実にすれば好成績があげられたから、父はそこにファイトを燃やしたのである。
例えば蚕室の消毒は畳をあげ、部屋を密閉してホルマリンの蒸気で行うが、眼を一番赤くしたのはいつも父であった。幼齢の蚕に与える桑の量と回数は、飼養標準表に書いてある通りに、目方を測り、細かく刻んで与える緻密な作業で父と母との担当であった。父はまた桑園の改良にも積極的であった。「天地がえし」といって、畦間を一メートルも深く掘って有機物を入れる土壌改良であるが、どこかの講習会で聞いてきたのをすぐ実行して立派な桑園を仕立てた。
父は養蚕に関しては積極的で陣頭指揮をしていた。その結果大正時代には近藤家はむら一番の養蚕家になった。
「絵図3-4-1」(明治四十二年の反別と地価表)
六ツ美村大字井内 近藤安治郎
宅地 一反三畝 四九円七八銭
水田 二町二反二畝 一三五五円三三銭
畑 九反六畝 二四八円六七銭
合 計 三町三反 一六五三円七八銭
なお、明治二十七年の県税は井内で三番目の納入者であった。
<むら一番の養蚕家>
ここに明治四十二年近藤安治郎の地価表がある(3-4-1図参照)。宅地一反三畝、田二町二反二畝、畑九反六畝、地価一六五三円七八銭。この内水田二町余りを小作に出し、畑の八反余りに桑を植えていた。明治の終わりから大正にかけて、「むら」一番の養蚕家になれたのは桑畑を目一杯に広げ、桑園の面積がむら一番になったこと。それに母屋が比較的に広く、そのまま蚕室に転用できることで、上簇(じょうぞく)期には庭にまで蚕棚ができたこともあった。上簇というのは蚕が繭をつくる時期にきたとき体が透き通ってくるのをひろいあげる作業で、一番忙しくなり、また苦労が稔るときでもある。
父の熱意と家族労働がそれを可能にした。
養蚕の作業は、桑つみ、給桑、除沙など軽い労働が多いので、こどもの労働力も動員された。養蚕に父が張り切れば張り切るほど、祖母と母と子どもたちへの動員は強化された。
近藤は、田植えの経験は無かったが養蚕労働は幼年期から経験したという。春蚕、夏蚕、夏秋蚕と毎期三〇日余りのうち五齢上簇の一週間は戦争のような忙しさが続いた。臨時雇に近くの娘さんを雇うのは上簇の頃だけであった。桑つみは朝晩の涼しい時刻にやり、蚕の喰い滓や糞を除く除沙は毎日一回、給桑は何回も行う。とくに五齢になると五、六回は必要で、夜一〇時と早朝にやるため、睡眠不足の苦痛を味わった。
蚕が上簇したときには、学校で試験が終わったときと同じ解放感をもった。解放感というのは酷使感の裏返しである。しかし養蚕に熱中している父は犯し難い厳しさがあった。真夜中の給桑に起こされると幼年労働の酷使だなどとつぶやきつつも、生産的労働の尊さを体験した。
近藤が後に経済学を学んだとき、生産過程を流通過程よりも重視し、労働価値説を素直に理解できたのは、父が養蚕に熱心で幼年労働を経験できたお蔭だという。
その意味で父は、言葉で教えず、実行をもって示した本当の教師であった。
「写真3-4-2」(近藤康男と父・安治郎)
[1] 大正四年発行の碧海知名人士録に掲載された安治郎;賛辞には「明治二年生まれ、かつて小学教員であったが家業を支えるため農桑を業とするが、村会議員におされ次いで村の収入役となった」とある。
[2] 当時の六ツ美村役場と農会の役員;安治郎は村の収入役と同時に六ツ美農会の役員も兼ねていた、大正時代早川村長を中心に右が安治郎。
略歴;明治二年生まれ、師範学校を出て小学校教師になっていたが、明治四十一年父弥兵隠居により家督相続。教師を辞めて家業に専念し、むら一番の養蚕家となる。大正時代は村役などを勤め、昭和になって銀行員となる。昭和七年株式相場で失敗し不動産を処分、昭和十六年死亡七十三歳であった。
<ウイットを解する母>
近藤家で農業労働力の中心は母たかであった。母は十六歳で嫁入りし、七人のこどもを育て、働きものの姑に仕え、養蚕は父の指図に従い、田の仕事は作男を相手に働いた働き蜂であった。
母は実家の両親の性格を受け継いで、如才ない人であり、ウイットを解する人であった。西瓜つくりの名人で、その秘訣を聞かれると、
「スイカつくりも子育てもおなじで、小さい苗のうちによく育てないと、よいスイカはできない」
と言っていた。近藤が中学入試のとき、受験番号が四十一番であったのをみて「始終一番になるんだよ」といって喜ばせた。
このようにその時に応じて気のきいたことを言う頓知は近藤に引き継がれ、「私は小型のカンガール」などという表現とか米寿の祝いのお礼の挨拶で「長寿の秘訣は長命の家系に生まれること」というユーモラスな発言になり、著作や論文の中にも所々によくウイットな表現があるのも母親ゆずりかも知れない。
さらに、母の労働をまのあたりにして農村婦人問題への意識が生まれた。明治の農村主婦には農業労働だけでなく、台所と育児の負担が加重された。近藤が昭和七年に書いた『農業経済論』に農民の過労と半失業の節を設け、
「ことに女子は農業労働の外に炊事、育児が課せられる。過労・・・これこそ百 の渦の伏するところ」として
「農人は戻るし
団子汁は煮えず
杓子は見えず
赤子は泣くし
やれ尻掻いや」
という民謡を掲げている。教え子の一人坂本楠彦は、この一節を読んで農業経済学科に入ったと言っていたが、この一節は近藤がこれを書いたとき、母のことが心情にあったからに違いない。
母は、康男のあと一年おきに男四人、女二人を産んだ。この子育ての時期はまた近藤家がむら一番の養蚕家となる過程でもあった。近藤康男が初めてカメラを手にして写したのはこれらの弟妹であった(後述・写真)。
大正時代の好況と戦後反動恐慌の波にゆられ、さまざまな困難に遭遇したが母にとって最も悲惨だったのは、年頃まで無事育てた子どもたちのうち男女四人を結核に奪われ、さらに、男二人を戦争で失ったことであった。
昭和前期のことは後にも述べるが、肺結核が社会問題になった時期である。それまで都市病であったが、この時期は農村にも蔓延した。
近藤家では、離れを親戚の娘に貸したことから、まず一番若い妹が感染し、つぎつぎに弟妹が冒された。また、近藤の弟二人は第二次世界大戦に動員され、一人は名古屋の軍隊で病死し、末の弟は満州で徴兵されフィリピンで戦死した。七人兄弟の中で戦後まで生き残ったのは近藤康男ひとりとなった。
「私の長寿は、弟と妹六人の寿命をあわせて受け継いだもので、大切にしなければならないと思っている」
「写真3-4-3」(康男の母・たか)
明治十二年碧海郡中島村大字安藤の杉浦定吉の長女として生まれ、十六歳で近藤家に嫁ぎ4年目に康男が生まれた。続いて六人の男女を産みながら、養蚕の主な働き手となった。しかし昭和初期は苦難続きで、昭和七年の倒産、こどもは次々に結核で死亡、あるいは軍隊に採られて帰って来なかった。
晩年岡崎を引き揚げ、東京・杉並の康男宅に落ち着いたが、昭和三十二年三月死亡七十八歳であった。
「写真3-4-4」(近藤康男の弟妹)
康男の弟妹は二、三年おきに生まれ男五人、女二人の七人兄弟姉妹となった。しかし、長生きしたのは康男だけで多くが結核に侵され、或いは戦争の犠牲となった。ここに大正十年ころの幼い弟妹の写真が康男自身のカメラに納まり、アルバム第一号として康男の自宅に保存されている。
[1]次男芳夫;明治三十四年生まれ、師範学校を出て教師になったが昭和十二年結核で死亡三十六歳であった。
[2]長女みちえ;明治三十九年生まれ、女学校を出て嫁に行ったが昭和十一年結核で死亡三十歳であった。
[3]三男信夫;明治四十二年生まれ、自宅で養鶏・雌雄鑑別師として父母同居 昭和二十二年結核で死亡三十八歳であった。
[4]次女はるえ;明治四十五年生まれ、兄弟で一番早く結核に感染し、昭和四年死亡十八歳であった。
[5]四男一夫;大正四年生まれ、成人して名古屋の軍隊に入ったが昭和十四年陸軍の軍隊内で病死二十四歳であった。
[5]五男行夫;大正九年生まれ、商業学校を出て満州に就職したが軍隊に召集され昭和二十年フィリピンで戦死二十五歳であった。
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