2000/01/04 原田 勉
1901(明治34)年・・・・1910(明治43)年
2、戦争と農民
2-1、戦争と農村のくらし
この時期の最大のできごとは日露戦争である。ロシアは中国東北部をねらい、旅順に東洋艦隊の軍港を築き、朝鮮にも触手を延ばしていた。日露戦争はロシアと日本のアジア進出の覇権争いである。日清戦争からわずか十年であったがそれに比較できない苦戦を強いられた。戦争の様相は日清戦争とは一変した。
ロシアはヨーロッパで発達した城郭を築き、機関銃や大砲などの新兵器と火力の威力は大きかった。それに対して日本は歩兵銃と肉弾で攻めた。どの戦場でも大兵力どうしの激突の場となり、数十万兵士の消耗戦であった。とくに旅順攻略は半年にもおよび、日本軍は一万数千人の人命を失った。
しかし軍事力で遥かに優れた帝政ロシア軍であったが、自国内の官僚政治腐敗と革命の機運によって内部体制が崩壊した。日本軍もこれ以上の戦争は補給が続かないぎりぎりの線で、ようやく勝利となった。
この戦争が、その後の第一次世界大戦、シベリア出兵をへて日本の軍国主義と軍需を中心とする資本主義が飛躍的発達をとげる基になったのである。
<戦争の被害>
日清戦争の損害は、兵卒の死者と廃兵合計は一万五千人余、そのうち八二%は病気によるものであった。近代では初めての外国派兵で当時は外征軍といっていたがすべて初めての経験であった。当時の軍隊では白米六合にたくあんや梅干といった偏った食事による脚気の多発でなすすべがなかった。加えて慣れない水と風土病、厳しい寒気による病気の続発であった。
その十年後の日露戦争の死者は合計九万六千人余、その内七〇%が戦死者であった。戦傷病者も三十八万人にのぼった。このときも陸軍では白米食による脚気は克服されていなかった。動員された兵士は多くが農漁村出身で総動員数百万人を超えた。
その時代に愛知県の農村はどんな状態であったか。近藤康男は幼き日の思い出を語る。
「私が岡崎市郊外の旧糟海村小学校へ入学したのは明治三十八年、その年の正月に旅順陥落、街では提灯行列があった。日露戦争の最中であったのだ。
しかし、日露戦争について残っている記憶は旅順開城のしらせを喜んだ家人の様子だけで、戦後の不況時代になると、家人や村人の間に不景気を嘆き、戦争になると景気はよかった、という話が多くなった」
農村の生活や農民の心理はどうだったのだろうか。
「日清戦争の始まった明治二十七年は天候もよく大豊作であったが二十八年は凶作であった。日露戦争の三十七年も大豊作で、戦争のときはいつも豊作だというのんきな迷信があった。日露戦争で農村から兵士百万人が動員され、馬の徴発は二十万頭で、農業生産力の低下は必然であった。
当時の農学者の間には戦争による労力不足のため堆肥は十分につくれない上に大豆粕の満州からの輸入は止まり、魚肥の生産も減少し施肥量が少なくなる。こういう時に気候不順になれば収穫に及ぼす害ははかりしれないと雑誌などで警告していた。それが明治三十八年の大凶作となったのでしょう」
戦争が農村の生活と生産におよぼした影響は、米麦などの農産物の値上がりといろいろな雇用の増加で一時的に潤った。これが戦争景気を農民が歓迎する理由である。
「写真2-1」 日露戦争の戦跡(旅順)
[1]二〇三高地:日露戦争の激戦地跡に建てられた砲弾型の慰霊塔、爾霊山(にれいさん)は旅順攻撃の司令官であった乃木将軍の命名という。この高地を 占領した日本軍はここを観測地として二八センチの巨砲をもって旅順港内の軍艦を壊滅し、日本海海戦を勝利に導いた。現在は中国・大連旅順の観光地となり、日本人観光客にも開放されている。
[2]東鶏冠山北保塁:旅順港を見おろす位地にあるロシア軍の要塞跡。
[3]ロシア軍要塞から晴れた日は旅順港が見える、日本軍はこの下にトンネルを掘って要塞の爆破をした。その跡がある。
[4]ロシア軍要塞・弾薬庫跡:コンクリートの厚い壁は一・五米、二階建ての兵舎兼銃眼が今も健在。セメントが発明されて間もなく五〇万樽を費やし五年余りで建設された堅固な城郭で、機関銃や大砲を装備し、城塞攻撃に慣れない日本軍を寄せ付けなかった。
2-2 <戦争と酒とたばこ>
戦争勝利のあと、農民が迎えたのは凶作と不況と重い税金であった。
農民にたずねると必ず酒とたばこの話になる。娯楽の少ない農村での庶民のたのしみは酒とたばこであった。それに税金が重くかかるようになったのが日清・日露戦争のためである。
酒とたばこは、ともに農民が自ら生産したものを加工して消費するのは自由だった。それが、日清戦争で国の経済力が損耗し、財政の窮乏は甚だしいものがあった。これに対処するための酒税と煙草専売強化が始まった。
明治二十九年に酒造税を大幅に増額するとともに、自家用酒造法を制定し、税額も引き上げた。いままで農民が楽しみににしていた「どぶろく」つくりは禁止され、違反者は罰金か懲役の対象になった。どぶろくつくりと税務署のたたかいの歴史は農村のどこでも普遍的にあった。農民はいまでもどぶろくをつくる自由は農民にあると信じている。密造が罪悪だとは思っていないひとが多いといってよい。
たばこも日清戦争中に酒造法と同時に「葉煙草専売法」が制定され、明治三十一年から実施された。これで農民は自給自足経済のもとに免れていた消費税の負担を強制されることになったのである。
「生産した葉たばこは安く、買うたばこは高いということになり、農民はたばこを買うために、米をつくり、換金作物をつくるという商品生産へ転換する過程であった」
葉煙草専売法ではこんな話もあった。
明治三十七年山梨県で検挙された例であるが、村里を遠く離れた山林渓谷に仮小屋を建て煙草密造の器械と材料をはこび、数十日も泊まり込みで煙草を造った。小屋には見張りを立て、税務吏や警官がきたら銃器で対抗したこともあった。そこまでいかなくても煙草密造は大小併せて一年に数千件におよんだ。
専売局はこれらに業を煮やしたのか、大正四年には「葉煙草一厘事件」と言うものがあった。近藤が中学二年の時である。宇都宮地方のある農民が自分が作ったたばこの葉を乾燥させて自分で吸ったのを、専売局は地方裁判所だけでなく控訴して大審院(今の最高裁)まで争った。新聞は便乗しておもしろ半分にとりあげた。結局専売法違反ではあるが、微罪は罰しないという新判例を出して終わった。しかし、専売局は新聞の力をかりて専売法は厳しいものだという宣伝の目的は達した。
「写真2-2」
2-3 農民と軍隊
農民が抱えた軍隊への感情はどうであったか。
近藤からの答は農家からみて困る面と、ありがたい面とがあるという。
「息子を兵隊にとられるということは農民にとっては労働力を取られることで、とくに長男をとられることは困るのである。しかし次三男にとって入営は一つの就労の機会でもあった。小作人の子どもでも頭がよければ、小学校から幼年学校、士官学校に進んで職業軍人になる道があった。下士官になる道は、十八歳から志願して陸海軍に入り、下士官志願すれば特務曹長(後に准尉と改められた)までになって、退役後は予備役軍人として中等学校の配属将校の助教になることができた。私の中学で教練の先生になっていたのは地元の特務曹長だった。職業軍人になる道は地主・小作、金持ち・貧乏を問わず、同等に開かれている。選抜試験を通るか否かの問題だけだった」
軍隊は星一つで階級の差別が大きいことは誰もが言っている。しかしそれは一般社会の階級による差別とは無関係の差別で、地主・小作、金持ち・貧乏などにもとずく差別が軍隊では消えてしまうところに軍隊の魅力がある。また、軍隊経験者は上官に鍛えられて、退役後の日常生活でぴりっとして良く働くから、軍隊帰りは村にかえれば尊敬された。
<農民と金鵄勲章>
「あの時期に話題になったことの中で、私の記憶に強く残っているのは、年金付きの金鵄勲章の話だった。
日清戦争のときに平壌城の玄武門に一番乗りして金鵄勲章をもらった原田重吉という人が私の郷里の近くの人で、一番乗りの場面を芝居にして有名になった。それが岡崎地方にもきたことをいまでもおぼえている」
原田重吉は、明治二十七年九月十五日、日清戦争のとき朝鮮・平壌城攻撃で玄武門に一番乗りして門を内から開けるという忠臣蔵もどきの戦功をあげた歩兵十八連隊(豊橋)の一等卒(当時は兵卒といい、まもなく卒が兵に改められた)。当時、数少ない金鵄勲章功七級をもらい有名になった。功七級の年金百円を貯めて田畑を買ったとか農民の羨望の的であった。原田上等兵は凱旋したあと、自らそれを芝居に仕組み、明治三十三年大阪の中座で上演し、その後全国各地を俳優として演じて廻った。
当時東京では、壮士芝居の川上音次郎一座が日清戦争芝居で大当たりだった。
原田重吉は初めはどこでもちやほやされた。しかし、近藤の村付近では「日清戦役の勇士が、芝居などをやるとは」と爪弾きされるようになった。
「日清戦争では金鵄勲章は非常に少なかったんだが、日露戦争では大判振る舞いであったようで、私の親戚の叔父も『小指一本で金鵄』だとかうらやましがられ、その年金で田地を買った」
「写真説明」2-3、金鵄勲章(功七級)
ここにある金鵄勲章功七級は兵に与えられるもので、近藤康男の思い出に出てくる日清戦争の勇士原田重吉上等兵が貰ったのはこの功七級であった。
真ん中に剣があり、その上にとまった金色の鳶が羽をひろげている。背景は二双の盾と鉾からなっている。
金鵄勲章は神武天皇の神話が起源で、東征の時天皇の弓の先に金色のとびがとまって敵の軍卒を眩惑・圧倒したという故事にちなんで明治二十三年二月十一日(当時紀元節と言った)に創設された。
一八九〇年制定にあたって「武功抜群ノ者ニ授与シ永ク天皇ノ威烈ヲ光(あきらか)ニシ以テ其忠勇ヲ奨励セントス」という天皇の詔書が出た。軍人だけに与えられた栄典で、現実味を帯びたのは日清戦争からである。明治二十七年十月金鵄勲章に終身年金(戦死者は一時金)が出るという経済的恩典をともなうことになった。功一級から功七級まであって武功のあった将軍が一級から二級、将校は三級から五級、下士官と兵は六級から七級と定められていた。年金は一級が千五百円、七級は百円であった。
<百円の値打ち>
「私の父は小学校の教師をしていたが、初任給七円という辞令があった。明治二十年頃の話である。
校長になると月給三十円で、村人は『日一両』といってうらやんでいた。まだ徳川時代の生まれの人が多く、貨幣換算も円や銭になじまず、何両何文というのが通用していた時代だ。
村人は戦争の思い出として、なぜロシアと戦争せねばならなかったかとか、戦後不況はどうして起こったのかなどは、話していなかったと思う。また戦死した村人の名を忠魂碑に刻んだだけで忘れてしまい、年金付きの金鵄勲章のはなしが多く話されていた。当時、水田一反歩(一〇アール)の値段は百五十円から二百円くらいだったが功七級で百円の年金を三年貯めれば二反歩くらいは買えたんではなかろうか」
明治四十年の水田一反で収穫された米はせいぜい一・七石(二五五キログラム)、米価が石当たり一六円だったから、粗収益は二七円くらいだった。これから四割の小作料と肥料代、臨時雇の労賃を差し引けばいくらも残らない。年雇の現金賃金は一年で四十円くらいだったのと比べても、金鵄勲章の年金百円は大変な魅力であった。
|