2000/01/04 原田 勉
1899(明治32)年・・・・1900(明治33)年
1章、十九世紀末の日本とアジア
1ー1、<日本とアジアを明治三十二年一月五日の新聞で読む>
近藤康男が生まれた一八九九年という年はどんな世の中であったのだろうか、ここに当時の東京朝日新聞がある。この一頁に日本国内とアジアの情勢を濃縮して表現している。
トップの見出しは「農商務省と山林払下」とある。これは今の社説のようで
「代々の農商務大臣が山林を政商に払い下げ紛争をおこしているが今後はすべて帝国議会の協賛を要すとすれば紛争はなくなると思う」という。国営企業や官有林の民間払い下げが当然のように行われていた時代である。
解説欄には「土地整理法案」が衆議院に提出されるというニュースで、農商務省が準備している法案「中農主義に則り田畑の畦畔細径を除去し之を耕作地と為し悪水排除作道の改良を為すにあり、その結果耕地を増加し収穫も多額になる」と言う。これは三月に「耕地整理法」として公布され、翌年から実施された土地改良の法制化のはじまりで、今日の水田の基盤整備事業などに続いている。
また同じ日の紙面にロシアは旅順口(港)を海軍根拠地と要塞にする工事を急いでいるという外電をのせている。つまり五年前の日清戦争で日本が領有した遼東半島を講和条約に三国干渉したロシアが中国から租借地として獲得し東アジアにおける前線基地とするためである。この五年後にはじまる日露戦争の準備はすでに着々と進んでいたのである。
さらに、北京発の外電で西太后が実権を握っている清国へのドイツ・イギリス・日本の要求、談判の進行状況を伝え、欧米の中国侵略が進んでいることを知らせている。ちなみにこの年から清国では排外愛国団体の義和団が起こり一九〇〇(明治三三)年欧米八カ国の公使館を攻撃した義和団の変(日本では北清事変という)となった。このほか、日本海軍の拡張計画、政党員の遊説などの記事がある。
こういう時代に近藤康男は生まれたのである。
「写真1ー1」東京朝日新聞明治三十二年一月五日一面記事
(この時の新聞代は一枚一銭五厘、一カ月前金三十三銭であった)。
1-2、<近藤康男の誕生>
近藤康男が生まれたのは一八九九年。戸籍によると「明治参拾弐年壱月壱日出生、壱月七日届出」となっているが、ご本人でさえ正確かどうか判らないと言う。この時、父近藤安治郎は三十歳(明治弐年拾月拾参日生れ)、母たかは二十歳(明治壱拾弐年弐月五日生れ)の長男であった。
母たかは十六歳の時(明治二十八年九月)嫁入りしたが二年余り子ができなかった。当時嫁いで三年、「子なければ去る」という古いしきたりがあった中で、ようやく出来た男の子に、里の杉浦家でも大喜びだった。
近藤が育った環境と家族については次の章にゆずるとして、その頃の世の中はどのような状態であったのだろうか。
1-3 <日清戦争後の日本と産業>
この頃の大事件は日清戦争であった。眠れる獅子といわれた清国の大軍と極東の小国日本が戦ったのである。近代日本で初めての外地への遠征である。国家財政が二億円余り、その中で二億円以上の戦争の費用をいかにねん出できるか、果たして勝てるのか、明治維新以来の国難といわれた。
当時、アジアでは、イギリス・アメリカ・フランス・イタリア・ドイツ・ロシアなど欧米列強が帝国主義的植民地支配の最後の戦略を中国と朝鮮に絞っていた。その時、揺藍期にあった日本もそれに乗り遅れまいとアジア侵出に乗り出した。その主導権争いが日清戦争であった。
わが国の軍国主義は日清戦争から具体化したと言ってもよい。朝鮮における清国との支配権争いの日清戦争は一八九四(明治二七)年八月に始まり、翌年三月には清国の敗北となった。その賠償金二億両(テール・日本円で三億円)は清国の歳入総額の二年半分という膨大なものであった。これによって日本資本主義は産業を発達させたと言われるが、屈辱も味わった。日清講和条約の破棄をロシア・フランス・ドイツの三国が迫った。いわゆる「三国干渉」である。台湾と遼東半島の割譲という条約のうち、遼東半島の還付を呑まされた。これが「臥薪嘗胆」という流行語を産み、国難という意識を国民に植え付け、富国強兵の体制と軍備拡大財政の基をつくることなった。
この時、日本の人口は四千万人余り、米一升(一・五キロ)が十三銭、木炭一俵三十二銭、もりそば一銭五厘、はがき一銭五厘という時代である。
戦後の政治経済は「臥薪嘗胆」を名分に欧米列強に負けない軍事力の強化と産業革命の進展をうながした。
綿糸紡績業を盛んにし、女工の出稼ぎが一般化し、日常雑貨や衣類など工場で作られた製品がゆきわたった。農村でも自分の家で機織りする人はいなくなった。生活は自給自足から商品経済に巻き込まれていった。近藤康男の生まれた愛知県の三河木綿生産地も輸入綿花におされて綿作りから米つくりや養蚕にかわっていった。
一八八〇年代から急速にふえた地主層は小作米の収益を公債や株式に投資し産業革命が生み出す利潤を手にするようになって、ますます大きくなっていった。また日清戦争の賠償金による官営八幡製鉄所など重工業は軍事工業をささえ、鉄道・電話・造船などの振興をうながした。これらの工場で働く労働者の供給源は農村であった。都市には農村から流れ込む人口が急に増へ、社会・労働問題が発生した。
「写真1-3」日清戦争当時の写真、農村の生活
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