追悼 近藤康男先生

  近藤康男先生の最晩年
  病いと闘いながら最期まで執筆に執念   原田 勉

 百歳を超えて、老いと病いと闘いながら、最期まで著作を諦めず、106歳まで生きる気力を貫き徹された見事な生涯であった。

<百歳からの人生>
 2000年1月3日、101歳を迎えられた日は、農文協創立60周年記念式で永年役員表彰を受けられ、30分の講演を行われた。
 テーマは「農文協60年史の編集を終えて」だった。その時一緒だった小倉武一理事や松尾孝嶺理事よりもお元気で、言語も明瞭だった。その後も一日おきに農文協図書館に通勤されていたが、3月13日、足がふらつくといって浴風会病院に入院、検査の結果は小脳に出血と診断された。3月23日退院。自宅静養された。
 4月17日には、ほとんど全快。また図書館に通勤され、『三世紀を生きて』の執筆を始められた。
 まず、農文協図書館の常務理事・原田勉が何年もかけて、先生の誕生から生い立ち、故郷の様子など現地取材も行い、それを基本原稿として、全農林「都市と農村をむすぶ」誌の7月号から9回にわたる連載「近藤康男の三世紀を生きて」が組まれた。連載の一回毎に、梶井功・原田勉のさらなるインタビューを受け、できた原稿を先生が読む。テーマによっては直接自身で執筆という形で進められた。
 先生は、その都度毎に拡大読書器で校閲。毎月の仕事としてはかなりハードワークであった。
 途中9月19日、図書館で発熱。頭がふらつくといって、息子の淳さんに車で迎えに来てもらった。このあと10月4日まで2週間あまり自宅静養された。健康取り戻された先生は、再び連載を続けられ、年内にはほとんど原稿が完成した。
 いよいよ、102歳で三世紀を迎えられるというので、マスコミ各社のインタビューが殺到した。
 まず「現代農業」2001年1月号、グラビアに三世紀を生きる近藤康男というテーマで、図書館の内外で先生のスナップ、自宅での家庭菜園や通勤途上の撮影をした。
 続いて日本経済新聞1月1日号文化欄にインタビュー構成で「生を受けとめ農に生きる」という記事が掲載された。
 その他、共同通信は新年号向けの写真とインタビュー記事を地方紙に配信した。農業協同組合新聞には梶井功農工大学長との対談「三世紀を生きて思う」。
日本農業新聞には、インタビュー記事「新年サンデーとーく」を掲載した。

<三世紀を生きての反省>
 2001年1月1日に百二歳の誕生日を迎えた。1月4日農文協による「近藤康男先生三世紀祝」の記念講演では「戦前の農村人口過剰問題と言論機関の果たすべき役割」を訴えられた。ころは1月5日毎日新聞に「三世紀を生きた元教授熱弁・言論機関の使命果たせ」と紹介された。
 同じ毎日新聞の5月10日号「ひと」欄に「“三世紀の人生”を本にまとめた農学者近藤康男さん」が紹介された。
 この出版を祝う会が教え子たちの手で行われたときのご挨拶では次のような反省が述べられた。
 「私が長い年月の間に経験してよかったと思うこと、悪かったと悔やむことを列挙したものであります。
 私が経験したことで、誇ってよいと思うことは戦前の農林省統計が不十分だったのを整理したことが、戦中戦後の経済統制に役立ったと思うことです。
 悪かった例としては、中国への侵略がひどくなった戦前の満州農業移民についてです。あの農業移民の大計画が国策として無理に進められたのを批判することをせず、むしろそれを進めることに参画したのは、今日になって誤りであったと気付いたことを本書で詳しく述べています。この満州農業移民の問題は私にとって、今でも忘れることのできない例です。」(2001年5月15日)
 このことがあってから、「文藝春秋」や「週刊朝日」にもインタビュー記事が多くなった。とくに週刊朝日の記事(12月13日号)は「語るには若すぎる……104歳、長寿の友は26歳下、不戦と食糧自給は譲れない。」の見出しで全国的に評判になった。
 インタビューが多い中でも、自ら執筆した思い出エッセイが103歳から104歳まで続いた。連載したのは、全農林の「農村と都市をむすぶ」誌である。テーマだけあげれば次の通りである。
 岡崎の歴史その一、在原業平の歩いた途
 岡崎の歴史その二、子買いの食事問答
 岡崎の歴史その三、安藤川改修
 東京高農の農経ゼミ、二人の学生の思い出
 東京高農「購買部出発の頃」
 有馬頼寧(ありまよりよし)さんの思い出
 以上は、農文協図書館に通勤し、先生が書かれた原稿を原田がワープロ入力した。
 先生は拡大読書器で校正して、加筆訂正されることもしばしばだった。手を抜くことは少しもされなかった。

<最晩期もあきらめず>
 2003年104歳になられた正月の農文協新年会には、風邪で欠席されたが、挨拶代わりにと、内部報用に「図書の保存は図書館が最高」というエッセイを執筆された。これが最後の自筆原稿になった。

 同じ歳7月、再び文藝春秋増刊号のインタビュー、10月には「NHK放送研究と調査」誌 占領下の放送委員会に証言とインタビューが載った。
 104歳の夏、7月末に白内障の手術をされてから視力が回復せず、活字も拡大読書器を使っても見えなくなった。横になられることが多くなり、足腰も弱り時々転倒して歩行困難になられた。
 それでも、時々自宅にお見舞いに伺うと起きてきて、昔の思い出を語られた。とくにその中でも9月23日は、大正14年ナナエ夫人と婚約しておられた頃、朝鮮農村調査の話は約2時間にわたる初めて聞いた話であった。
 大正14年朝鮮農村調査は『朝鮮経済の史的断章』(1987年農文協刊)に詳しいが、その時、婚約者の宮川ナナエさんは黄海南道の海州女学校で教師をしていた。そこで朝鮮女学校の生徒を通じて日本の支配下の実情を聞いた。
 ナナエさんとの付き合いは、先生の大学時代から始まり、4年して結婚された。その間のいきさつを1時間あまり話された。私は、この時の感想を電子耕144号に「高齢者が元気になる青春の想い出」として紹介させていただいた。
 105歳から106歳のときは、転倒や肺炎のため入退院を繰り返された。
 目が不自由のため病院や自宅で、寝たり起きたりの静養中であっても、気分が良い日は、1時間以上も話をされていた。また、そのつどリハビリに努力されて、最後まで生きる意欲を失われなかった。
 2005年6月、106歳の時に、農文協創立65周年記念式典があり、それにあたって祝辞を口述していただいた。その一部を紹介しよう。
 「国民全体に役立つ文化運動を今後もさらに発展させて、日本国内はもちろん、アジア諸国にも影響を与え、ひいては世界平和のために寄与するように、諸君の活動を期待します。これからは、百周年記念を目指して尽力されるようにお願いしたいと思います。」
 これが先生の最期のメッセージとなった。
 
(2005年11月12日、脳梗塞による肺炎を併発し、重体に陥る。11月25日午前6時死去。お別れの会は12月12日行われた。

(農文協図書館監事)

2006年3月15日

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
◆追悼 <近藤康男先生の死去の報に接して>
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 2005年11月25日、午前6時、近藤先生死去の報に接して106歳の生涯を想い、万感胸に迫るものがあった。

 先生は1899年、愛知県岡崎市の農家に生まれ、第八高等学校の時から農民の側に立つことを志され、東大農業経済学科に進まれた。以来一貫して農民の立場から農業経済学者として一筋の途を歩まれ、農村・農民の中に入り、実証的研究を進め、早くも1932年、『農業経済論』においてマルクス経済学の視点で農業問題を社会科学として確立された。

 1943年、思想弾圧により東大教授を追放されたが、戦後は東大に復職、農林省統計調査局長も兼務、食糧供出割当調査と農村民主化のために尽力された。農地改革への参与、共同研究『貧しさからの解放』の出版。『近藤康男著作集』など多数の著作と多くの教え子の中に先生の志は今もなお大きく生きている。

 先生の著作・蔵書の全ては、自ら整理された近藤康男文庫として農文協図書館で公開されている。
http://www.ruralnet.or.jp/nbklib/book/071kondoubunko1.html

 とくに最晩年の著作として、100歳になってから後輩のために編まれた『七十歳からの人生』は、高齢化社会になった我ら老人の生き方を指し示している。また『三世紀を生きて』は102歳までの人生を省み、過去の反省を含めた名著となっている。
http://www.ruralnet.or.jp/news/kondou/tankou.html

 続いて想い出エッセイを104歳まで雑誌その他に発表された。

 105歳の療養生活に入られてからも、リハビリに努力され最後まで生きる執念を維持され、生命を放棄されることはなかった。

 ご冥福をお祈りいたします。



ホームページは、「農業経済学者 近藤康男の3世紀」
http://nazuna.com/100sai/

 近藤家での葬儀は、12月1日、喪主、近藤淳(長男・こんどう・じゅん)さんにより、近親者のみにて行われました。自宅は非公表。

 「お別れの会」は農文協・農文協図書館の主催により、次の通り行われました。

 2005年12月12日(月曜)午後1時、港区青山葬儀所にて

 (連絡先・農文協03−3585−1141)


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  ◆ お別れの会で「笑顔の写真」!
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 近藤康男先生のお別れの会は、12月12日、青山葬儀所で行われた。参列者は南は沖縄から北の北海道まで、およそ500人。農業・農村関係と労働組合関係者が多かった。

 お別れの言葉を捧げた人は、農村文化運動(農文協・農文協図書館)関係代表。全農林労働組合代表。農業経済学界代表。東大農学部長。ドイツ・チューネン博物館長。であった。農林省の統計調査局長を勤めておられたので、統計関係の担当部署や統計協会の研究者の出席も多かった。

 近藤先生は、一貫して弱者の立場に立ち、戦前は、地主的土地所有の問題を指摘して東大を追放されることもあったが、戦後は農地改革に寄与され、また農村民主化のための稲作収量調査などで日本の農林統計の基礎を築かれた。

 志を同じくする研究者を組織し『貧しさからの解放』や著作集を刊行された。それに列なる全国の研究者・学者の参列も目を引いた。

 弔辞の中に、農林大臣や政治家などの名がなかったのも“弱者の立場”の近藤先生のお別れの会らしく、清々しいものを感じた。本来なら文化勲章をもらってもよいお人だと思ったが、今回の参列者にみるように、現体制や独占資本に奉仕する人々は見られなかった。

 106歳の長寿を保ち、百歳を超えても一人で図書館に通勤し、『七十歳からの人生』と『三世紀を生きて』という高齢化社会の老人を励ます著作など奇跡に近い業績を残された。

 104歳になって白内障の手術ののち視力が戻らず、自由な歩行が困難になっても、足腰の筋力トレーニングなどリハビリを続けられた。何をするにしても節制型で暴飲暴食をせず健康に気をつけられた健康法は、我々の範とすべきものであった。

 最晩年の今年6月3日、農文協創立65周年記念式典には出席されなかったが、次のようなメッセージを寄せられた。これはひとえに農文協だけでなく、農業問題に携わる人々にとって遺言となるべきものであろう。

「農村文化運動をさらに発展させて、日本国内はもちろんアジア諸国にも影響を与え、ひいては世界平和に寄与するように、諸君の活躍に期待します。これからは100周年記念を目指して尽力されるようにお願いしたいと思います。」

 祭壇に飾られた遺影は、近藤先生が103歳のときの写真とお見受けしたが、にこやかに笑っておられる笑顔は、「後輩の諸君よ、ではお別れだぞ」と言っておられるような感じでした。

 先生の御志は、私たちの心に深く刻み込まれています。とお答えし、先生の御霊の安らかならんことを心からお祈り申しあげました。

農文協図書館監事・近藤理事長秘書

              原田 勉

「農業経済学者 近藤康男の3世紀」